[横歴通信2月]例会開催

2月2日の例会参加者は81名でした。(会員79名、ゲスト2名)
懇親会には35名の参加がありました。
平日の開催でしたが出席者は毎月の様子と特に変わりはなく、出席者数に影響がありそうなのはお天気なようです。関東でも雪が降りました。
暑さ寒さも彼岸までと言います、もう少ししたら暖かくなるでしょうか。春よ来い!

新入会員

西野 久代(にしのひさよ)さん
家族の系図、古代 律令制 神社の歴史 郷土史ほか

 

 

  熊本会長

先月の総会後から新体制でスタートしています。一部の班長が交代したので紹介します。
佐藤班は井戸さん、清水班は江泉さん、長田班は藤田さん、平班は外岡さんです。4名の方が代わりましたのでよろしくお願いします。わからないことがあったら聞いて下さい。総選挙真っ最中ですが最近応援の電話が全くなく、運動の仕方が変わったのかインターネットの時代でしょうか。楽しい世界になってほしいと思います。

下垣 有加さん・・・演題「『愚管抄』における梶原景時の評価から推測する、頼朝期における鎌倉党の影響力についての検討」
歴史研究の醍醐味は新発見でそれまでの通説を覆すことにもあるだろう。研究が進むにつれ、人物に対する評価も以前とはだいぶ変わってきている。下垣さんは言葉の拡大解釈で過剰に評価することは実像から遠ざかるのではないかと。今回の発表は『愚管抄』の中で慈円が景時に対して高い評価をしていたと言われる「一ノ郎党」「鎌倉ノ本體ノ武士」という二つの言葉の語義を確定することで評価の再考察を試みている。
最初に基本情報として梶原景時、侍所、守護・国司、略系図の説明後、『愚管抄』の該当する記事を現代語訳を加えて一つ一つ丁寧に解釈され、主語・年代・文脈などから意味を特定した。慈円の景時に対する認識は、頼家期に鎌倉郡と周辺地域を主力勢力としていた武士団の有力者で、鎌倉党を代表する人物と社会的に評価されていたこと。それが『愚管抄』の記述に浮かび上がる梶原景時、鎌倉党の評価なのではないだろうかとまとめられた。
新説を発表することは研究者にとっては大きな喜びであろうが、基本的な語義の定義をとらえることから慎重に行わなければいけないと感じる発表であった。

(質)鎌倉本体の武士はあまり力がなかったということですか、景時が住んでいたのは寒川の方では、それらしきものがないが。
(応)鎌倉に住んでいた武士ということです。景時が住んでいたのは寒川、京都、鎌倉の十二所です。

歴史上の人物で評判が悪いのは梶原景時、高師直、石田三成ですが、『愚管抄』の「一ノ郎党」「鎌倉ノ本體ノ武士」はイメージ的には誉め言葉。景時が讒言したとかは歌舞伎の世界でそもそも讒言とはありもしないことをいうことで侍所の所司が報告することは役割です。
『愚管抄』には梶原景時、土肥実平、北條時政を従えとあり、挙兵当初から景時が頼朝に従っていたというのはどうでしょうか。
(演者)所領など地理的に言うと平家方に近い。、源平盛衰記でも頼朝方のように、最初から源氏方のように書かれている。奥さんの筋は源氏方であり最初から源氏と考えてもいいかと思う。今後さらに史料を集めていきたい。
黒澤 孝之さん・・・演題「サンティアゴ巡礼路」
最近は新入会された方の発表が増えてきて喜ばしいことです。黒沢さんも入会後一年での初めての発表です。
自己紹介の中で退職後に東海道や中山道の街道歩きを始め、さらに39日間、800キロに及ぶサンチアゴ巡礼路での体験を映像を流しながら語った。サンチアゴ巡礼路についての歴史や背景などを解説。国家の宗教的統一からレコンキスタに至るが、それには迫害されていたユダヤ人の力が必要不可欠であった。
巡礼は年間50万人程で12世紀が一番盛んだったが14世紀末にはペストの流行やプロテスタントにとっては禁止だったので衰退していった。現代の巡礼は純粋な信仰での人は少なくリスクもない。歩く楽しさや景色、同志との交流などの素晴らしい体験であったと語った。歴史を学ぶことがどう現代につながるのか、日本の未来を考える視点に立っていきたいと終えた。

(質)ユダヤ人は金融業など人がやりたがらない仕事に就かされるなど一段低く見られていたと思うが、ユダヤ人の存在はサンチアゴ巡礼や成立や発展に影響はあったと考えられるか。
(応)国家統一時には商業、手工業、経済力が強くその点でユダヤ人の力も必要であった。
(質)サンチアゴ巡礼路の14世紀以後すたれてから20世紀に至るまでの歴史を聞きたかった。日本の歴史的古道とスペインとの比較はどうでしょうか違いなどを。
(応)日本は自動車が通ったり、東海道や中山道など昔の古い泊まるところがなかったりで嫌になるがスペインは宿泊できるところがあり、歩きやすい。国がお金を出して整備している。文化遺産となっている。

宗教に関係なく巡礼の路を歩くというのは世界共通にあります。チベットの巡礼路は五体投地で何千キロを6~7か月かけて進む過酷なものもあります。四国の巡礼は20万人の参加者がいるが完走できるのは5万人程です。この近くでは坂東三十三観音巡りがあり、一番は歴史散歩で行った鎌倉の杉本寺です。巡る順番はいろいろで鎌倉幕府の勢力に従って作ったという話もあります。
真野 信治さん・・・演題「平治の乱の真相~誰が何をしたかったのかわからない~」
摂関政治から院政そして保元・平治の乱から武家政権へと続いていく中での「平治の乱」にメスを入れた。平治の乱について記された一次史料がないのはなぜだろうか。
まずは通説である平治の乱勃発の原因としてあげられる信西と藤原信頼の政治の主導権争い、源義朝と平清盛の待遇格差の不満、二条天皇と後白河上皇の二頭政治をあげ、通説に対する疑問点として恩賞に対する不満に対してはもともとの地位に大きな開きがあり任官についても順当である。平清盛と源義朝は敵対関係にあったという一次史料はない。
三条殿襲撃の目的は信西一家の討伐ではなく後白河の拉致と院御所(三条殿)の破壊だった可能性が高い
上皇の御所を襲える臣下など考えられず、上皇や天皇クラスしか考えられない。
結果、義朝の三条殿襲撃は二条天皇の王命であった、と結論付けた。
三条殿襲撃が二条天皇の王命に従って挙兵したにもかかわらず、反逆ととらえられ頼朝も伊豆の僻地に流された。朝廷全員で二条天皇の犯罪を隠ぺいした。
それを知る頼朝は隠ぺいした真実を公にせず、切り札として権限行使の根拠を鎌倉入りまで訴求させることを認めさせた可能性があると論じた。
最後に頼朝の命の嘆願は池禅尼ではなく上西門院が清盛に圧力をかけたのであろうと付け加えた。

後白河派と二条派の争いが背景にあります。隠ぺいをカード(切り札)として使ったというのは知らなかった。親子だったり、血縁関係があっても疎遠だったということですね。

横歴勉強会「古文書講座第10回(最終回)」が1月31日(土)開催


昨年2月からスタートした古文書勉強会も第10回の最終回を迎えました。
一昨年に3回で始まった講座が好評だったため1年間での連続講座となりましたが、常に20数人が参加され、全く初めての方でも少しずつ上達することができました。また、関連する展示見学会にも参加して貴重な解説を聞くことができたことは嬉しい体験でした。楽しい教材と丁寧なご指導をして下さった仲泉先生、ありがとうございました。
館で行っている古文書講座にも参加される方が数人出てきて本気のやる気を感じられます。古文書の解読が趣味や特技の一つになると嬉しいですね。

横歴日帰りバスツアー参加者募集のご案内
ー「日本神話最強の武神を訪ねる旅」ー
実 施 日  令和7年5月24日(日)
集  合  横浜駅東口
午前8時(8時10分出発、時間厳守)
費  用  14,000円(昼食・入館料・保険料他含む)
募集人員  先着44名
*参加申し込みハガキは3月例会時(3/1)に配布
*詳細は2月例会で配布の「横歴日帰りバスツアー参加者募集のご案内」をご覧ください。
*募集は3月例会以降です。ご予定の確認をお願いします。