賢治の古書々々話

横浜で古書店を経営する当会会員 中島賢治さんの古書にまつわるお話。知っているようで知らない古い本のお話、業界の裏話や歴史的な本がどうやって世に出るのかなど面白いエピソードを交えて綴っていいただきます。

*「本を売りたい、買いたい」といた古書に関するお問い合わせは
⇒中島古書店へ080-6254-6301 e-mail:nakajimakosyoten@gmail.com

第4回「手紙の話し」

 
 手紙が好きで、仕入れのために市場に出かけ、古い手紙の束が出品されているのを見ると何となく気になって入札してしまいます。差出人や宛先、内容に惹かれて入札する事もあれば、「もしかしたら何かあるかも」と山っ気だけで入札する事もあります。後者の場合、大抵は落札した後、調べて後悔する羽目になります。
 そんな馬鹿な事を繰り返しているうちに事務所はなかなか商品化にたどり着かない葉書や書簡で溢れてしまっているのですが、先日も馬鹿なので懲りずに市場で手紙の山をいじくっていたところ、気になる封筒を発見しました。差出人は中井弘、宛先は弘田正郎。明治27年4月24日の消印があります。中は入っておらず封筒のみでした。差出人の「中井弘」は名前の横に「京都府庁」とある事から明治期の政治家で京都府知事を務めた中井弘である事は間違いないでしょう。調べてみると在任期間も一致します。宛先の「弘田正郎」はネットで検索をしてみると高知の教育者として知られる人物の様です。
 ただ、いくら名のある人物の手紙でも、封筒だけでは意味が無いとお思いでしょう。しかし私にとってはとても意味のある封筒なのです。何故かと言えば中身はすでに持っているからです!!
 しばらく前に市場で同じように手紙の山を漁っていたところ封筒の無い弘田正郎宛中井弘書簡を見つけ、落札したものの売りあぐねていたのでした。弘田からの手紙への返信で内容を読み取るのは難しいですが、「京都府は目下何れも、満員で余地が無い」と言った事が書かれています。
 そういった訳で、これは是非落札しなければいけないと思い、そこそこ強気で入札したのですがあっさり負けてしまい落札ならず。要らないものは落札できるのに必要なものは手に入らない不運を嘆いていると、事情を知った落札者の方が「封筒だけならいらないからあげる」と気前よく譲って下さいました。
 持ち帰って本文と比べると日付も一致しました。なにかの弾みで封筒と中身が別れて市に流れた様です。もし自分がその日市場に行かなければ、きっと手紙と封筒は今でも離れ離れのままだったでしょう。偶然が生んだ感動の再会物語でした。
2018.12.20

第3回秋の短冊

10月に開催される即売会の目録の為に在庫の中から「秋」にまつわる品物を探していたところ、美しい紅葉の下絵の施された、題も「紅葉」と付けらえた正におあつらえ向きの一枚の短冊を見つけました。

「紅葉 やま〳〵にそめて色こき紅葉の あかきを人のこゝろともかな 忠元」

「あかき」は紅葉の「赤」と偽りのない心を表す「明き心」の掛詞でしょう。山々を染める紅葉の様に、人の心も嘘偽りがなければよいのに、といったような意味でしょうか。

作者は諏訪忠元。芝東照宮社司を務めた人物。越後新発田藩十一代藩主・溝口直薄の息子で、このコラムの第一回で紹介した越後新発田藩十代藩主・溝口健斎の孫にあたります。明治3年に生まれ、後に諏訪九代藩主・諏訪忠誠の娘・晴子と結婚し諏訪家の家督を相続します。和歌や茶道等に通じていた風流人でもあったようです。

いつどのような状況でこの歌が詠まれたのかはわかりませんが、親しみやすい素朴な筆跡から、どことなく諏訪忠元の人柄が偲ばれて来るような気がしてきます。

第2回 横浜の古写真

 毎週月曜日に反町で開催されている業者市で二十枚程度の古い写真の入った箱が目に留まりました。一枚一枚取り出して見てみるとどうやらすべて横浜の風景の様です。花電車や路面電車が写ったものや何気ない街の風景、関東大震災の被害状況を写したものも多くあります。興味を惹かれ入札し、運よく落札することができました。
事務所に持ち帰ってよく見てみるとやはりすべて横浜の西区・中区のもので、関東大震災から昭和初頭にかけて写真が大半を占めていました。写真の裏に貼りつけられた説明書きから凡その現在地が推察されますが、今の横浜の風景との様変わり具合に驚かされます。現在も遺構が残されている高島町に存在した横浜駅(二代目)の写真や、かつて現在の関内駅辺り架かっていた『豊国橋』という現在では失われた橋の写真もありました。
そういった今では見ることの出来ない風景の他にも、現在でも存在する掃部山公園の井伊掃部守像や伊勢山皇大神宮が写ったものもあります。そんな写真も現在見ることの出るものとはどこかしら違った様子があります。
古写真に写った風景から情報を読み取ったり、空想を膨らませていると時間が経つのを忘れてしまいます。古写真を片手に普段歩きなれた道を散歩してみるというのも思わぬ発見があって楽しいかも知れません。
*本コラムの追筆となるエッセイが会報77号に掲載されました。
写真の中の井伊直弼 ⇒エッセイ中島賢治

第1回 溝口直諒『報国説』

手元に一冊の和本があります。サイズは大本、丁数は七丁という薄い本で、一見すると版本かと思ってしまう程丁寧な楷書で書かれた漢文体の写本です。茶色い表紙に貼られた外題には『報国説 全』と有ります。内題にも『報国説』と有りますが、何故か上から附箋が貼り付けられており隠されています。本文及び附録の末尾には「健斎識」と記されており計四種の印が押されています。また本文末尾には「健斎」の名の横に小さく「退翁」と書き添えられています。恐らくはこの「健斎」という人物が著者でしょう。年代は本文末尾に「嘉永庚戌仲春上浣」附録末尾に「安政丙辰孟春」と有る事からこの『報国説』が幕末頃に成立したものである事が分かります。
和本の住所録ともいえる『国書総目録』(岩波書店)で『報国説』を引いてみますと「(類)雑記(著)溝口直諒(成)安政三(写)東大史料」と有ります。東京大学史料編纂所に写本が収められているだけで、確認出来る限りでは他にはどこにも所蔵されていない様子で、また版本も存在していない様です。著者の溝口直諒はインターネットで検索をかけてみると越後新発田藩第十代藩主だという事が分かりました。
溝口直諒は寛政十一年一月八日江戸にて生まれます。新発田藩第九代藩主である父・直候の死に伴い享和二年に四歳で家督を相続します。また文化十年には将軍徳川家斉に初御目見し、同年従五位下伯耆守に叙任します。そして天保九年直諒三十九歳の時に長男・直薄に家督を譲ります。「健斎」「退翁」は直諒が隠居後に名乗った号です。
元々好学の大名として知られていた直諒は隠居後に勤王論・海防論にまつわる著作を執筆します。今回の『報国説』は広く読まれ新発田藩の尊王開国という方針を決定付けた直諒の代表的な著作とされているそうです。そして私の手元にある『報国説』は数カ所に加えられている訂正などから稿本ではないかと推察されます。
そこでふと疑問が浮かびました。なぜ藩の思想に強い影響を及ぼし、幅広く読まれたと伝えられている『報国説』は今現在ほとんど伝本が確認されていないのでしょうか。多くの人々に読まれたというのであれば版本が存在するのではないでしょうか。
二〇十六年に印刷博物館で開催された『武士と印刷』展の図録の巻末に「藩主印刷リスト」
が有ります。そこで溝口直諒の項目を確認しましたが『報国説』に関する記載は存在しませんでした。勿論国文研のデータベースにも有りません。これから先、詳しい事が判明したらどこかでお知らせしたいと思います。
古本屋は古書が人から人へと受け継がれていく際の中継地点に過ぎません。一冊の本をいつまでも手元に置いて居ては仕事になりません。この『報国説』も最終的に手放すことになるでしょう。本が収まるべきところに収まり、その時私の些細な疑問も解けてくれたらと思っています。