横歴 例会のご案内

◇9月例会

(注)8月の例会はありません。
令和元年9月2日(月)1時より 横浜開港記念会館」

佐藤 猛夫さん 演題「 私の歩いた五街道(中山道編)
 以前、東海道を日本橋から京都三条大橋まで歩き、帰路を中山道にして日本橋まで戻ってきたことがありました。中山道は東海道五十三次の百二十六里六丁(約492Km)より十里(約40Km)ほど遠回りとなり、六十九宿を数えます。
歩き始めて間もなくの近江平野では新幹線がすぐ隣を並行して走っているところがあります。むこうは時速270Km(秒速75m)、2時間後には東京に着くというのに、こちらは時速3.5Km(秒速1m弱)。こっちだっていつかは日本橋へ戻れるんだからと独り言を言いながら、延べ27日で日本橋へ着きました。
時速3.5Km、地上1.5mの高さの目線からは、車で通ったのでは見過ごしてしまうちょっとした街道沿いの風景や道端の道標など、いろいろなものを見つけることができました。
「できる限り旧街道を、中抜きせずに順序よく」に徹して歩きつないだ中山道で見たり聞いたりしたことを、お話ししてみようと思います。
当会でも東海道を歩いた方が何名かいますが、五街道すべてを踏破したのは佐藤さんだけだと思います。今回は中山道、楽しみですね!
(写真)木曽路の碑(発表者撮影)

瀬谷 俊二郎さん 演題「 江戸を吟味する 」
徳川家康が江戸に入府したのは1590年(天正18年)である。幕府の始まりとされる1603年から1868年・維新まで260年余り大きな戦争もなく平和を維持し続けたことは世界史的に見て非常に稀有な時代であったといえる。
この間西欧では、市民革命・産業革命・アメリカの独立等の大きな変革があり、市民意識の高まり、工業力のup等を背景に近代国民国家がその礎を固め、植民地経営や大きな戦争を経ながら現代の世界的な骨組みを作り上げていった。
一方、江戸では文治主義の下、藩校・寺子屋の創立・整備・増加や街道・宿場の整備、庶民文化の開花、高い識字力率などで知的レベルの高い独特な世界がつくりあげられた。衣食住でみる生活は決して豊かとはいえず、さらに身分制下の不便等はあったが、リサイクルや相互扶助等現代の視点から見ても参考になるものが多い。 現代の中核をなす資本主義の成長・発展に行き詰まりが見える現在もう一度江戸をじっくり吟味してみたい。
瀬谷さんは一昨年、「江戸後期の3先生」で近代日本の基礎となった教育について述べられましたが、今回はさらに視点を広げ発表されます。江戸から学ぶものが期待されます。
(写真)日本橋 朝の景(広重)大名行列

山本 修司さん 演題「 天誅組主将・中山忠光とその流転の血脈 」
(中山忠光(ただみつ)と愛新覚羅浩(あいしんかくらひろ)、慧生(えいせい)、嫮生(こせい)の生涯」

今回は明治天皇の叔父であり、天皇の遊び相手でもあった中山忠光とその曾孫の愛新覚羅浩に関わる2つの物語をさせていただく。わが身を顧みず、国のために生涯をかけた一族への記憶を新たにしたいと思っている。
中山忠光は、王政復古を目指し、孝明天皇が攘夷祈願のために大和行幸を決心したのをきっかけに皇軍御先鋒として決起した天誅組の主将に担がれた。一心公平無私(土地を得ては天朝に帰し、功あらば神徳に属し、功を私することあるべからず)が天誅組軍令。文久3年(1863)8.14決起。8.17五條代官所を襲撃し「五條御政府」開設。8.18京都で公武合体派による政変が勃発、天誅組は一転、朝敵に。圧倒的な幕府軍により天誅組は約40日で壊滅。主将・忠光は長州に脱出、隠遁し再起を期したが、1864.11.15暗殺される(享年20歳)
忠光の曾孫が嵯峨浩。浩は満州国陸軍(関東軍)の方針で愛新覚羅傑(清国ラストエンペラー溥儀の弟)と政略結婚。しかし「双方とも一目惚れ」であり、その愛は生涯貫き、女子2人(慧生、嫮生)にも恵まれた。満州国解体後、溥傑はソ連抑留となり、浩(流転の王女)・嫮生(流転の子)の親子は関東軍から置き去りにされ、ソ連軍、中京軍、国民党軍に次々と追われ、日本人が大虐殺された「通化事件」等に遭遇しながら、様々な苦難を乗り越えて中国大陸を1年5ヶ月、約6000キロを流転。遂に奇跡的逃亡劇で上海からの最後の引き揚げ船で脱出し日本に帰国。その後、夫溥傑との再会には16年もかかった。心からの日中友好を目指した浩らへ試練はまだまだ続く…

◇7月例会

令和元年7月1日(月)1時より 横浜開港記念会館」
真野信治さん 演題「 チンギス・カン一族とその系譜 」
会誌77号にて、初期モンゴル帝国の権力抗争について投稿させていただきました。
その後会員の方から様々なお話をいただき、その反応をある程度感じることが出来たので、ここでもう一度チンギスおよびモンゴル帝国の全体像を系譜の観点から俯瞰してみたいと思います。
征服者チンギス・カンは、実はその前半生の事は殆ど分かっていません。現在、我々が僅かながらにそれを垣間見ることが
出来るものに、三つの史料の存在があります。
ひとつはモンゴル語で書かれた『元朝秘史』、次に漢文の『元史』、最後にペルシャ語で編纂された『集史』です。
この全く違ったシチュエーションで書かれた史書を相互比較しながらチンギス・カン等の研究を進めていくことが、現在のモ
ンゴル研究のありようです。これらの史料を踏まえながら、西はバルカン半島から、東は朝鮮半島まで超広大な帝国を築き上げたチンギス・カンと、その巨大な遺産を必死で守り続けたその子孫について、系譜的な切り口から出来る限り言及してみたいと思います。
また今回はチンギス・カンの出現以前の状況にも触れてみます。はたしてどのような環境が大征服者チンギス・カンを生んだのか? その謎にも迫ってみたいと思います(発表者談)
真野さんは日本家系図学会の役員もされています。専門的な見地からの発表、ご期待下さい。
(写真/チンギス・カンの即位)

古谷 多聞さん 演題「 シベリア出兵・Siberian Intervention(後編〉!
昨年9月発表会の「ご案内」と「会報77号」には「古谷は海軍から陸軍に転属した」と記されていたが、「私にとって陸軍は仮の棲処であって、私の本籍地・現住所は今以て共に海軍に在り、根っからの海軍オタクに変わりはない」と改めて表するものである。
今回は昨年に引き続き「シベリア出兵・後編」と題し
(1)出兵後の現地シベリアでの日本陸軍の行動(軍規・対パルチザン戦闘での苦戦・ニコラエフスク事件等)
(2)出兵後の日米間の対立・摩擦
(3)原敬首相の撤退方策
(4)米英諸国がシベリア現地から撤兵したなかで日本だけが何故長期駐留したのか? 等について参考文献・参考資料を孫引きする従来方式を踏襲し、その断片的事項を而も上っ面だけを、さらに己の独断・独善・偏見雑感等を織り込んでお話したい。尚己の独断・雑感などはレジュメ<私見>として記載した。
当日ご出席の皆様方には大変恐縮ではあるが、昨年発表のレジュメ「シベリア出兵・前編」を今回発表の予習教材として復読され「出兵までの経緯」を頭の片隅に入れて頂き、そして当日私の拙い発表の補足資料としてご活用して頂ければ有難いと静思するものである。また発表後には、皆様から忌憚のないご批判・ご叱正・ご質問・ご意見を承り今後の私の学習の糧と致したい。(発表者談)
古谷さんは昨年9月の発表で,シベリア出兵とは一体何であったのか? 日本は何故海外出兵をしたのか? について述べられました。今回はその後編です。こうご期待!

◇6月例会

「会員発表会と特別講演会」令和元年6月2日(日)1時より 横浜開港記念会館
木村 髙久さん 演題「開国と横浜開港の真の功労者は誰か」」
本年は横浜開港160周年という節目にあたる。そこで改めて「開国と横浜開港の真の功労者」について考察する。
手掛かりとしては横浜市内に開国と横浜開港に貢献したと思われる3人の銅像、石碑がある。3人とは横浜市立掃部山(かもんやま)公園の井伊直(なお)弼(すけ)の銅像。次に横浜市立野毛山公園内にある佐久間象山の石碑、そして旧東海道神奈川宿本覚寺の門前に民間団体が建立した岩瀬忠震(ただなり)の石碑である。
場所、規模等から推察すると、横浜市は功労者を井伊が1位、佐久間が2位と考えていると思われる。
また横浜市は昭和33年1月、横浜開港100年記念事業の一つと して「開港功労者顕彰」を実施し31名の方々を選んだ。
これらの中でテーマに該当すると思われるのが堀田正睦、佐久間象山、井伊直弼、岩瀬忠震、T・ハリスとⅯ・ペリーの6名である。
この横浜市の評価は妥当であろうか。(上写真:井伊直弼銅像)
昨秋の歴史散歩は「開港地横浜を行く」でした。誰が真の功労者なのか? 気になりますね!

◆特別講演会 午後3時00分~4時30分
講師 松尾 光さん 演題「 コトバを創り、話したように記すー古代びとの挑戦 」
◇略歴
・1948年 東京生まれ
・学習院大学文学部史学科卒業後、同大学大学院人文科学研究科史学専攻博士課程満期
退学 博士(史学)
・神奈川学園中学高等学校教諭、高岡市万葉歴史館主任研究員、姫路文学館学芸課長、
奈良県万葉文化振興財団万葉古代学研究所副所長、中央大学文学部 早稲田大学商学部
非常勤講師をへて、現在早稲田大学エクステンションセンター講師。

〇 ご著書 単著(15冊)
☆『古代の神々と王権』1944年:笠間書院  ☆『日本史の謎を攻略する』 2014年:笠間書院
☆『天平の木簡と文化』1994年:笠間書院  ☆『現代語訳魏志倭人伝』  2014年:KADOKAWA
☆『天平の政治と争乱』1995年:笠間書院  ☆『思い込みの日本史に挑む』2015年:笠間書院
☆『古代の王朝と人物』 1997年:笠間書院 ☆『古代史の思い込みに挑む』2018年:笠間書院
☆『古代史の異説と懐疑』 1999年:笠間書院
☆『白鳳天平時代の研究』 2004年:笠間書院
☆『古代の豪族と社会』  2005年:笠間書院
☆『万葉集とその時代』  2009年:笠間書院
☆『古代史の謎を攻略する
古代・飛鳥時代編』 2009年:笠間書院
☆『古代史の謎を攻略する
奈良時代編』  2009年:笠間書院
☆『古代の社会と人物』 2012年:笠間書院

〇 編著・共著  96冊

◇5月例会

祝改元「令和」
令和元年5月4日(日)1時より 横浜開港記念会館

中村 康男さん 演題「浮世絵から歴代市川團十郎の特徴と日本の伝統芸能を垣間見る」
イ)400年の歴史を誇る歌舞伎は、江戸時代初期の「かぶき踊り」がルーツと言われ、その全盛期は町人文化が栄えた文化文政時代です。元禄期に江戸で初代市川團十郎が「荒事」を、京都で坂田藤十郎が「和事」を演じ、これが人気を博し歌舞伎ブームに火がつきました。日本文化の象徴である歌舞伎の歴史を紐解きながら、落語や講談など他の芸能にも触れたいと思います。
ロ)幕末までは写真がなかった江戸時代ですが、幸い写真の代わりに浮世絵が当時活躍した歴代の市川團十郎の姿を描いてくれています。それらの浮世絵から歴代の特徴を垣間見ます。
ハ)さて、元号改正、東京五輪、大阪万博とイベントの話題が満載のご時世に、海老蔵が2020年に十三代目市川團十郎を襲名することが発表されました。名跡市川團十郎の復活です。歴代の中で、三代目以外の奇数代は大きな功績を残しました。十三代目にも大いに期待したいと思います。 “成 田 屋!”
中村さんは地域で「浮世亭寿八」の高座名で落語も演じています。楽しみですね。
(写真/初代市川團十郎 三代目歌川豊国画)

村島 秀次さん 演題「 倭の五王と前方後円墳ツアー 」
イ)昨年は邪馬台国の都と卑弥呼の墓を皆さんにビジュアルで見て頂きましたが、今年は世界遺産の正式登録が待たれる大阪府の百舌鳥(もず)・古市古墳群をご覧いただきます。
ロ)前方後円墳を地上から見ても、樹木の繁る小山にしか見えず、その形がよく分かりませんが、今回は特別に高さ80mの高層ビルの上から見た古墳の姿を見て頂きます。
ハ)ところで、古墳の埋葬者である倭の五王の墓が、なぜ大阪平野の東と西の二つの地域に離れて存在するのでしょうか?
片や大阪湾から眺める高台の地にある百舌鳥と、片や大和の国境近くの大和川流域にある古市の間は、距離にして約9Kmですが、両者の関係は実際の距離以上に隔たっているようです。その理由とは ?
古代史の難問を明快に解いて自説を展開する村島さんのツアー・シリーズ第二弾にご期待下さい。
(写真/百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵 (大 山 稜))

宮下 元さん 演題「 縄文文化の疑問と概説 」
イ)前回、旧石器の話をした。3.8万年前から五月雨で列島に到来した旧石器時代人が、海面上昇で列島に残されたのが縄文人である。縄文人は1万年の間、列島内でほぼ均一であった。現代日本人の遺伝子の12~20%が縄文人遺伝子という。文字が無く、謎だらけの縄文文化・気質を疑問点を中心に概説的に私見を交えお話ししたい。
ロ)縄文文化は縄類(糸・紐・綱・網)を敬う、木と土の独自の文化である。金属道具無しで西欧やアジア大陸文化とは一線を画す。近年、三内丸山遺跡の発掘で、縄文観が大きく変わった。
また、小牧野のストーンサークルも見つかり謎は深まるばかりである。
ハ)中でも土器・土偶の美的センスと先進性・多様性・精神性は他に類を見ない。世界遺産として誇るべきものである。
次の世界遺産の申請は、東北の北部と北海道南部の縄文遺跡だそうだ。なお、噴火湾の遺跡発掘に当会谷川先輩が携わったとのことである。
宮下さんはこの時代について毎回さまざまな観点から興味深い発表をされています。
(写真/小牧野遺跡全景)

◇4月例会(終了)</

平成31年4月7日(日)1時より 横浜開港記念会館

近藤 政次さん 演題「 日記を読む・そして〇〇をかく 」
イ)近代日本の著名人の日記、16歳から亡くなるまでの9年間を綴った「樋口一葉日記」、能楽師「梅若実日記」、ロシア人宣教師「ニコライ全日記」、宮内省高官・枢密院議長をつとめた「倉富勇三郎日記」などを取り上げます。
ロ)これらの日記は相当の分量になるが、各日記の意義はどこにあるのか、また気になる点や人物を発表者が提示します。
ハ)近藤さんは入会4年目で「歴研よこはま」に数多くの投稿をされていますが発表は今回が初めてです。
日本近代史を「日記」から読み解く‘コツ’が聞けるものと思います。なお、演題の〇〇は気になりますがそれは発表当日に明すとのことです。聞き逃せないですよ。
(写真/東京復活大聖堂(ニコライ堂))

高野 賢彦さん 演題「 武田信玄の死因と卒去地を探る 」
イ)武田信玄の戦力は川中島戦の頃がピークであり、その後は冴えなかった。それはどうしてか。信玄は今川義元が死去すると駿河へ攻め込もうとしたが、義元の娘を妻に迎えて駿河派を自認していた跡目の義信(義元の母寿桂尼の世話で迎えた三条夫人の子)が強く反対したからだ。
信玄はストレスが溜まり、ついに唯一の跡目で30歳にもなっていた義信を殺害し晴れて駿河攻めを敢行しようとした。しかしその矢先にストレス性の病にかかった。
ロ)意外にも繊細な信玄は時々病を発症し、三方ヶ原戦に勝利すると年末年始の二週間を浜名湖畔の引佐細江の刑部で、またその後も長篠城、鳳来寺、福田寺などで養生した。そして甲府への帰途を急いでいた道中で信州南端の根羽村の道端で閉眼のやむなきに至った。
ハ)私は信玄の最大の謎である死因と卒去地を知るため思い切って現地を踏査した。酷暑の中、鉄道やバスの便が実に不便な地域で信玄とその軍勢がはるばる山を越えてきた峠を眺めて感慨一入であった。今回の発表は通説に対する反論である。皆さんのご参考になれば望外の喜びである。(発表者談)
高野さんは武田氏に関する幾つかの本を書かれています。自説の発表楽しみです!!
(写真/長野県 根羽村 信玄供養塔)

高尾 隆さん 演題「 富士講の祖―食行身禄について 」
イ)昨年江戸の富士講についてお話ししましたが、残念ながら富士信仰の概略から富士講に至るまでの話で終了しました。江戸富士講の祖と言われる伊勢出身の食行身禄という人物は、新しい世をつくるために富士に入滅しましたが、新田次郎の小説「富士に死す」で知られる位で殆ど世に出ていません。しかし関東を中心とした各地の富士講の史跡(主に石碑)に身禄の名を多々見つけることができます。
ロ)それでは彼は生きている時、どんな行動を起こし、どんな業績を残したのかほとんど知られていません。また彼が伝えたかった教えはどんなことで、どう伝えられ、現代に至るまで富士講にどのように生き続けたのか。
ハ)そこには山岳信仰の祖、役小角(えんのおづの)のような神秘的かつ超人的なエピソードは無く、カリスマ的イメージは皆無と言えます。また新田次郎が描くような美談に満ちた一生とも言えません。今回は富士吉田の御師のお話を交え、戦前まで隆盛を誇った富士講の成立とその後の変遷をお話したいと思います。(発表者談)
江戸文化のスペシャリストである高尾さんの発表、ご期待ください!!
(写真/富士山登山絵図 烏帽子岩(弘化4年))

◇3月例会(終了)

平成31年3月3日(日)1時より 横浜開港記念会館

大瀬克博さん 演題「日本最長の大名家・九州相良藩」
イ)九州南部の急流球磨川流域に広がる人吉盆地はクマソの地である。自然の恵みで生きていける地であり、古くから多くの部族が住み古代文化を築いていた。この地を鎌倉時代から明治維新までの670年を統治した相良氏は江戸幕府諸大名の中で島津氏と並ぶ最古の家系である。
ロ)相良氏は遠州相良庄の出で鎌倉幕府より人吉庄地頭に任じられた。戦国時代に島津家との領地争いで存亡をかけた戦いがあり、また関ヶ原の戦いでは西軍として参戦し終盤に寝返って徳川家より所領を安堵されている。これを実行したのが家老相良清兵衛であった。清兵衛は後に藩政を壟断したとして幕府より流罪処分を受けた。清兵衛一族
はこれを不満とし藩主への反乱を起こし相良家最大のお家騒動となった
ハ)西南戦争で最後の組織的な戦闘が行われたのが人吉である。約1ケ月の戦いで人吉は陥落し城下は焼け野原となった。旧人吉藩士は両軍に分かれ戦っている。
大瀬さんはご出身の人吉に思いを馳せて発表されます。(写真/人吉城址)

斎木 敏夫さん 演題「 飛鳥、白鳳時代の斑鳩の里 」
イ)斑鳩は法隆寺を中心とした矢田丘陵の南部・富雄川右岸(西側)地域です。602年に厩戸皇子は斑鳩宮を造営して移
り住み、607年に父の遺命により法隆寺を創建法隆寺が完成した。その場所は現在「若草伽藍」と呼ばれている。厩戸
皇子の妃、膳大郎女の実家の地で大和川に近く、また河内や飛鳥方面とも街道でつながった交通の要所のため、厩戸皇子
一族(上宮王家)は斑鳩周辺に拠点を構えたと考えられている。
ロ)推古天皇の宮殿は小墾田(オハリダ)宮であるが現在も住所は不明で明日香村奥山とか桜井市大福が推定地と言われている。仮に大福であるとすれば近鉄大福駅の北約520mに鎮座する三十八柱(ミソヤハシラ)神社あたりであったらしい。この説は梅原猛氏が支持している。そうであれば斑鳩宮からの距離は飛鳥よりも近くなる。
ハ)法隆寺の西に大工集団の本拠地である西里の集落があり、その先に藤ノ木古墳がある。そこに祀られた人は明確になっていないが、一説によれば崇峻天皇とも言われ、その陵寺として法隆寺を造営したとも言われている。法隆寺の飛鳥時代の様子やその他斑鳩三寺と云われる法起寺と法輪寺、中宮寺についてもお話するつもりです。(発表者談)
田園風景が広がり古寺が点在する大和の地・斑鳩、何とも浪漫溢れるテーマですね!!(写真/藤ノ木古墳)

清水 漠さん 演題 「戦国武田氏三代目・武田勝頼 」―その生涯・器量 そして「勝頼伝説」
イ)戦国武田氏の研究と言えば、武田信玄・信玄が統治した時代を中心に研究されてきた。武田勝頼の研究が進展したのは今世紀に入ってからと言われている。
ロ)今回は武田勝頼について、その生涯・器量等について発表し、併せて「勝頼伝説」を披露したい。
ハ)【生涯】天文15年(1546)誕生、元亀4年(1573)信玄死去、勝頼家督相続・28歳。天正10年(1582)3月天目山麓・田野にて自害。武田氏滅亡・37歳。
【器量】戦国時代の代表的大名・武田信玄が築いた領国を滅ぼした人物というマイナス評価が絶対的なものか。“不運の人”勝頼を見直したい。
【伝説】田野で自害したのは、勝頼の影武者。勝頼とその子信勝は、上野国に落ち延び最終的に現在の<某県・某町>に天正12年(1584)流れ着いた。そして慶長14年(1609)死去という伝説。本当か?(発表者談)
清水さんは昨年3月の穴山氏に続き武田氏に関する発表です。(写真/武田勝頼肖像)

◇2月例会(終了)

平成31年2月6日(木)1時より 横浜開港記念会館

長尾 正和さん 演題「 大江広元と息子たち・一族の盛衰 」

イ)源頼朝が鎌倉幕府を開設しその支配を確立するにあたり、最も重要な役割を果たした人物の筆頭が初代政所別当を務めた大江広元である。
彼は奈良・平安時代から多くの文人・学者・歌人等を輩出した大江家の出身であり、生まれも育ちも文官貴族の身であった。
30代後半になって京から鎌倉に下向し、源頼朝のもとで新たな武家政権確立に多大な尽力をしてゆく。
ロ)広元には7男4女がいたとされるが、その息子たちはいずれも幕府に重用され、次第に武士一族あるいは高級官僚一族に変貌してゆく。
ハ)各嫡流家代々の当主たちは、鎌倉時代から中世・近世という歴史の流れの中でいくつもの大きな出来事に遭遇してきたが、それぞれの家はどう対応して、いかに生き延びたのか、あるいは歴史の表舞台から消えていったのか、その歴史を追いかけてみる。
長尾さんは頼朝政権確立時、将軍に次ぐ存在で大きな功績を残した大江広元を祖とする一族について話されます。興味深いですね。
写真:大江広元像(毛利博物館所蔵)

蛭田 喬樹さん 演題「日本は九州出身?」

イ)前回は神武元年紀元前660年の話をした。この紀年は卑弥呼と神功皇后の活躍時期を一致させる必要から紀年を延長させることになり、その結果として作り出されたものである。
ロ)今回は720年に作られた日本書紀によると、イザナキは九州の海で禊をし、アマテラスは孫を九州高千穂に降臨させた。神武は瀬戸内海を遡り、奈良に国を開いたことになっている。日本は全て九州から始まったとされるが、これはインチキである。
ハ「書記」は日本の古代史を記す「六国史」の最初を飾る書である。また国が作ったものである。国がインチキな歴史を書いたのは何故だろうか。
今回のテーマは何ともセンセーショナルなものです。何故そうなったのか、蛭田さんの自説が展開されます。それは聞いてからのお楽しみ!!
写真:日本書紀(書籍)

堀江 洋之さん 演題「「伝説に満ちた陰陽師(オンミョウジ)阿倍清明の生涯」
イ)阿倍清明を祀る神社は幾つかあるが、そこには近年のブームを反映し魔除け・厄除けの霊験のパワースポットとされ若いを中心に人気を集めている。
ロ)平安時代は貴族文化が栄える一方、都では疫病や飢饉が蔓延し不安定な時代でもあった。こんななかで、人々は仏教や陰陽に救いを求めていきました。占い師の祖神(おやかみ)と言えば阿倍清明をおいて他に考えられないという。
ハ)平安中期の陰陽師・阿倍清明は陰陽・暦術・天文術に精通し伝説的易占いの名人とされています。しかし彼の生涯を調べると謎に満ちて
います。清明の子孫は土御門家となり陰陽道を伝えてきた家ですが、清明がどのような生涯を生きてきたのかを探ってみました。
清明神社にある星形(五芒星)の神紋、神秘的な数々の逸話が残る阿倍清明、果たしてどのような生涯を送ったのかが解き明かされます。  写真:阿倍清明公木造

◇1月新春発表会(終了)

平成31年1月8日(火)1時より「ホテル横浜ガーデン」で開催

【新春講演】
竹村 紘一さん 演題「天下の大器と期待されながらも早世した蒲生氏郷の生涯」
イ)織豊時代の知勇兼備の名将と謳われた蒲生氏郷は当初は人質であったが、信長の信頼と引き立てを受け、信長の次女を娶り数々の武功を挙げて出世街道を走る。
ロ)本能寺以降は秀吉に従い、北伊勢の滝川一益を牽制し、小牧の戦いでは二重堀を守備して撤退時には殿軍を務めた。その後も紀州征伐・越中攻め・九州征伐・小田原征伐で戦功を重ねた。
ハ)小田原征伐後の奥州仕置きで会津に封ぜられ遂には九十二万石の大大名になり、その大器振りを多くの人々に評価されていたが、文禄の役で名護屋城在陣中に発病し治療に努めたが、文禄四年(1595)二月に惜しまれながら病没した。行年四十歳。
希代の英雄であり、豊臣秀吉が徳川家康よりも恐れた蒲生氏郷の生涯、名調子の竹村さんの講演が楽しみです。

◇12月例会(終了)

12月3日(月)1時より大桟橋「波止場会館」で開催

【研究発表】
西山 達夫さん 演題後編「 田沼時代 」について~美濃・郡上一揆の果断な処理~
イ)田沼意次が直接に幕府政治に関わるのは美濃郡上一揆の審理からである。郡上藩金森家は藩の財政窮乏を打開するため、年貢徴収方法を定免制から検見取制(けみとりせい)へ変えようとした。
領民は年貢の負担過重を恐れ、方針の撤回を求めて4年間にわたり強訴、江戸の駕籠訴、目安箱への訴状投入を繰り返した。
ロ)この事件に幕府要職者の関与を疑う将軍家重の指摘があり、幕府は当事件を評定所審理と決定。
困難を極めた審理は、将軍家重の意を受けた御用取次(田沼意次)が出席する前代未聞のものとなった。審理の結果、藩主金森頼錦の請託を受けた老中、若年寄、大目付、勘定奉行、代官が領民の要請を抑圧したことが判明。幕府重職らは罷免、改易、大名は改易の厳罰に処された。
ハ)この大事件の解決は、活躍した田沼意次が台頭する要因となり、年貢増収に偏重した財政から、成長する商工業の収益を課税対象に組み入れる重商主義的な財政政策に向かうことになる。
西山さんは昨年、田沼意次の発表をされました。今では教科書でも意次の功績が記載されています。第二弾にもご期待!!

植木 静山さん 演題「 日米・日英・日露和親条約の対外的そして国内的な影響について 」
イ)平成30年は明治元年から起算し150年目に当たります。幕末の日米和親条約を機に欧米諸国に加わることになった日本は、明治時代新たな国際関係構築にむけて歩み始めます。
ロ)嘉永6年(1853)アメリカ大統領フィルモアの親書を携え、ペリー提督は艦隊を率い日本に来航し幕府に開国・通商を求めた。1年の猶予の後、翌嘉永7年(1854)3月3日全12箇条からなる日米和親条約を締結・調印し、ここに200年以上にわたる鎖国は終焉をむかえた。翌年になると幕府はロシアと領土問題を含む日露和親条約、イギリスと日英和親条約を次々と締結していった。
ハ)当時各国にはそれぞれの思惑があり、これら一連の和親条約は一見同じように思えるが内容は全く異なるものであった。
その内容と対外的、国内的影響について皆さんと共に考えてみたいと思います。(発表者談)
植木さんは一昨年末に「後醍醐天皇・記」を出版しましたが、それ以前の著書には日本開国に関するものが複数あります。専門的見地からの発表、勉強になりますよ!
(写真)ペリー渡来絵図貼交屏風 東京大学資料編纂所所蔵

上野 隆千さん 演題「 明治の気骨・田中正造と足尾銅山鉱毒事件 」
イ)栃木県北西部、渡良瀬川の上流部に位置する日光市足尾町に足尾銅山はある。採掘の歴史は古く16世紀と言われるが、幕末には掘りつくし廃山同然になった。しかし明治に入り相次いで鉱脈が発見され、やがて東洋一の生産量を誇る銅山に発展した。
ロ)しかし精錬・採掘・選鉱過程で発生する亜硫酸ガス、重金属を含んだ排水等により渡良瀬川下流域で深刻な鉱毒問題を起こすことになる。我が国の公害問題の原点と言われる足尾鉱毒事件は、加害者と被害者の因果関係が法的に解決するのに何と100年近くの歳月を要することになる。
ハ)その過程の中で、一人の政治家・田中正造が立ち向かった。
まだ公害に対する社会の認識が希薄だった時代、明治の富国強兵・殖産産業の国策のなかで正造はどう闘ったのか。執拗なまでの正造の追求に国が動かなかったのは何故か。あの有名な天皇に対する直訴とは何であったのか。いま足尾銅山は世界遺産登録を目指しているが、今回は足尾銅山の影の部分を取り上げたい。
上野さんは正造と同じ栃木県出身で、現役時代には環境問題にも関わったこともありこのテーマを選んだとの事です。
(写真)晩年の田中正造

◇11月例会(終了)

【研究発表】
春口 健二さん 演題「神社研究-その6「古代の祈りと祭り」
イ)昨年は現存する神社の例大祭を見学し「祈りと祭り」の概要を報告した。
ロ)一方、現在の神社建築様式や神祇体制が構築されたのは、538年の仏教公伝以降である。
仏教と仏教建築が普及された時期、各地域の古来からの「祈りと祭り」の場(神社)も平行して整えられた。
ハ)今回はそれ以前の縄文・弥生および古墳時代の人々が自然災害にもめげずに子孫の繁栄を祈念し(祈り)互いに励ましあってきた(祭り)を考古学の資料から読み取り発表したいと思います。(発表者談)
春口さんの神社研究は6回目を迎えます。前回に続き日本人の心の原点に迫ります。ご期待下さい。

森岡 璋さん 演題「 松陰日記を読む 」( 柳沢吉保伝 )
イ)柳沢吉保は万治元年江戸市ケ谷に生まれ幼名は弥太郎、18歳で家督を継ぎ保明と名乗る。家禄530石、館林宰相綱吉に仕える。小納戸役から側用人に登用され、川越城主を経て後に甲府城主20万石を領し大老格となる。この間元禄14年松平姓を許され綱吉の吉を貰い吉保と改める。
ロ)この異常な出世の故か歴史上の世評は総じて芳しくないが、柳沢の悪評の殆どは後世の捏造であり、悪法と言われた生類憐みの令と重ねて脚色された歌舞伎や俗書により柳沢佞臣説が流布されることになった。
ハ)今回は側室正親町町子の日記から元禄時代という時代背景、将軍綱吉と吉保の関係、吉保の交友関係より伺える人脈と圧倒的な政治力と影響力を読み解くこととしたい。結論は実直に将軍綱吉を支え数々の難題の処理に当った能吏の姿であり、一方では学問を好み和歌に優れた教養人である。大名としては領民を大切にし、川越城主時代には三富地区の開拓事業を完成し、甲府城主時代には甲府八珍果を始めとする産業振興を進めるなど領国経営にも優れた名君であった。側室正親町町子の日記から伺える柳沢吉保の素顔を紹介し、将軍綱吉を支えた能吏としての実績を検証する。
出世の節目になった時の町子さんの日記原文を紹介しながら発表をされます。こうご期待
(写真)岩波文庫カバーより六義園図原本は国立国会図書館蔵「六義園図」

進藤 洋輔さん 演題「 小机城址を訪ねて 」
イ)今年、当初の予定では昨年のテーマを引き継ぎさらに追及すべく考えていたのだが、どうにも行き詰まってしまい、それなら!とこれも比較的身近にあって以前より関心を寄せていた小机城を取り上げ調査することにした。
ロ)小机城址は現在横浜市民の森の一つとして整備されており、竹林に覆われ静かな佇まいを見せる小高い丘となっている。私が数年前に訪れた時には何の変哲もないこじんまりとした、やたら竹が多い自然公園・・・程度の認識しか持たなかった。しかし今回改めて訪ね調べてみると空堀の巨大さに示される如く、城としての堅牢さと背後に豊かな歴史を抱えている見事な城であることが判った。同時期に存在した茅ケ崎城ほどは整備されておらず、適度に野趣味を備えた見事な古城である。
ハ)地域の人々に昔から愛され春と秋にはお祭りが開かれ、特に春に行われている「小机城祭り」では鎧兜に身を固めた武者行列が賑やかに行われている。今日は、そんな小机城の素晴らしさと、関東の戦国時代の奔りとでも言うべき太田道灌が登場するその歴史を皆さんに紹介しようと思います。
小田原城の支城としても名高い小机城の案内、楽しみですね。
(写真)小机城址

◇10月例会終了

10月1日(月)1時より横浜開港記念会館で開催
【研究発表】
竹内 秀一さん 演題「 神奈川の古代直線官道について 」
イ)長い間、古代の道は細くて曲がりくねっているものと思われていました。ところが1970年代に入って古代の道に幅が広く直線的な道路があることが分かってきました。
その後の発掘や研究によって、側溝付き幅9~12mの直線的に目的地をつなぐ大規模な計画道路が、なんと全国に張り巡らされていたことが明らかになってきました。しかしながらこの古代の直線官道が、いつ、誰によって、何のため造られたのか、まだまだ多くの謎があり全貌は分かっていません。
ロ)皆様、現代の神奈川県の地図を見て何か不思議に思われませんか? 国道246号や中原街道がほぼ直線で右上45度に平行して走っているのが・・・ 現代にも古代に遡る直線官道の痕跡が結構残っています。
大半は地下に埋もれていますが、一部は現在の道路に継承され地図で分かるものもあります。
ハ)鎌倉時代や江戸時代の道は新しすぎてつまらない・・・ 私の趣味はこの奈良時代以前に遡る古代直線官道を探索することです。今回は主に神奈川県内の古代直線官道について地図や写真を使ってお話させていただきました。

吉田 友雅さん 演題「 武田信玄の大将として 」
イ)武田信玄は戦国時代の英雄であり大武将であった。徳川家康・織田信長ともに恐れをなした人物である。特に徳川家康は作戦・政治面で信玄の影響を多く受けたと言われる。
ロ)信玄の大将としての考え方をいくつかの視点から捉えたい。
「慈悲を忘れの事が肝要である」家臣の板垣信方・甘利虎泰・飯富虎昌また治山治水を通して慈悲とは何かを述べたい。「適材適所で人材を生かす」多様な人材をどう的確に結び付け最大の力を発揮させるかが大将の力である。武
田24将を始め実に多彩な人材が結集している。信玄は人材登用の名人であった。「正しき人物の見方」信玄は大身、小身共に人を見そこのふ邪道七ツ之事として人物の本質を見誤りがちと言う。
「賢将は五分の勝利を上とす」信玄の勝負についての考え方。「人心の離反は一国の滅亡となる」すべての変化に対応していくのが大将であり、時流を捉え時代を知るべきである。
ハ)一部では戦国時代の生んだ冷酷非情の大将と言われる信玄だが、以上五つの視点から信玄の大将としての考え方を検証したい。現代は便利になりすぎ情報が溢れ人間関係の希薄さが生まれている。信玄の考え方は私たちに何かを教訓を残してくれるだろう。

槙 良生さん 演題「 幕末、維新、そして明治を駈けた宇和島藩 」
イ)かつて江戸時代も末期、四国の西南、伊予宇和島藩10万石に松平春嶽、山内容堂、島津斉彬と共に「四賢侯」と称された藩主がいた。宇和島伊達家の8代目宗城(むねなり)である。
ロ)宇和島という地は江戸から1000Kmの彼方、四国の果てと言っても過言ではない。外様であり、石高も10万石ほどで決して多くはなかった。 宇和島はリアス式海岸で急峻な山岳が迫っており、米は不足しがちで藩政は困難の連続であった。だが、これが高野長英を匿い、大村益次郎を育て上げ薩長土肥の雄藩と並んで幕末に大いに国政に関与したのであった。
ハ)なぜ、このような藩が指導的な役割を果たすことが出来たのだろうか。
今回は藩主宗城に焦点をあてて、彼自身の活躍のみならず彼の下で育った藩士や領民たちが、激動の幕末、維新、そして明治の新しい世を疾風のごとく生き抜いていった姿を振り返っていきたいと思う