横歴 例会のご案内

◇12月例会 “ 会場は引き続き波止場会館になります”

12月3日(月)1時より大桟橋「波止場会館」で開催

【研究発表】
西山 達夫さん 演題後編「 田沼時代 」について~美濃・郡上一揆の果断な処理~
イ)田沼意次が直接に幕府政治に関わるのは美濃郡上一揆の審理からである。郡上藩金森家は藩の財政窮乏を打開するため、年貢徴収方法を定免制から検見取制(けみとりせい)へ変えようとした。
領民は年貢の負担過重を恐れ、方針の撤回を求めて4年間にわたり強訴、江戸の駕籠訴、目安箱への訴状投入を繰り返した。
ロ)この事件に幕府要職者の関与を疑う将軍家重の指摘があり、幕府は当事件を評定所審理と決定。
困難を極めた審理は、将軍家重の意を受けた御用取次(田沼意次)が出席する前代未聞のものとなった。審理の結果、藩主金森頼錦の請託を受けた老中、若年寄、大目付、勘定奉行、代官が領民の要請を抑圧したことが判明。幕府重職らは罷免、改易、大名は改易の厳罰に処された。
ハ)この大事件の解決は、活躍した田沼意次が台頭する要因となり、年貢増収に偏重した財政から、成長する商工業の収益を課税対象に組み入れる重商主義的な財政政策に向かうことになる。
西山さんは昨年、田沼意次の発表をされました。今では教科書でも意次の功績が記載されています。第二弾にもご期待!!

植木 静山さん 演題「 日米・日英・日露和親条約の対外的そして国内的な影響について 」
イ)平成30年は明治元年から起算し150年目に当たります。幕末の日米和親条約を機に欧米諸国に加わることになった日本は、明治時代新たな国際関係構築にむけて歩み始めます。
ロ)嘉永6年(1853)アメリカ大統領フィルモアの親書を携え、ペリー提督は艦隊を率い日本に来航し幕府に開国・通商を求めた。1年の猶予の後、翌嘉永7年(1854)3月3日全12箇条からなる日米和親条約を締結・調印し、ここに200年以上にわたる鎖国は終焉をむかえた。翌年になると幕府はロシアと領土問題を含む日露和親条約、イギリスと日英和親条約を次々と締結していった。
ハ)当時各国にはそれぞれの思惑があり、これら一連の和親条約は一見同じように思えるが内容は全く異なるものであった。
その内容と対外的、国内的影響について皆さんと共に考えてみたいと思います。(発表者談)
植木さんは一昨年末に「後醍醐天皇・記」を出版しましたが、それ以前の著書には日本開国に関するものが複数あります。専門的見地からの発表、勉強になりますよ!
(写真)ペリー渡来絵図貼交屏風 東京大学資料編纂所所蔵

上野 隆千さん 演題「 明治の気骨・田中正造と足尾銅山鉱毒事件 」
イ)栃木県北西部、渡良瀬川の上流部に位置する日光市足尾町に足尾銅山はある。採掘の歴史は古く16世紀と言われるが、幕末には掘りつくし廃山同然になった。しかし明治に入り相次いで鉱脈が発見され、やがて東洋一の生産量を誇る銅山に発展した。
ロ)しかし精錬・採掘・選鉱過程で発生する亜硫酸ガス、重金属を含んだ排水等により渡良瀬川下流域で深刻な鉱毒問題を起こすことになる。我が国の公害問題の原点と言われる足尾鉱毒事件は、加害者と被害者の因果関係が法的に解決するのに何と100年近くの歳月を要することになる。
ハ)その過程の中で、一人の政治家・田中正造が立ち向かった。
まだ公害に対する社会の認識が希薄だった時代、明治の富国強兵・殖産産業の国策のなかで正造はどう闘ったのか。執拗なまでの正造の追求に国が動かなかったのは何故か。あの有名な天皇に対する直訴とは何であったのか。いま足尾銅山は世界遺産登録を目指しているが、今回は足尾銅山の影の部分を取り上げたい。
上野さんは正造と同じ栃木県出身で、現役時代には環境問題にも関わったこともありこのテーマを選んだとの事です。
(写真)晩年の田中正造

◇11月例会(終了)

【研究発表】
春口 健二さん 演題「神社研究-その6「古代の祈りと祭り」
イ)昨年は現存する神社の例大祭を見学し「祈りと祭り」の概要を報告した。
ロ)一方、現在の神社建築様式や神祇体制が構築されたのは、538年の仏教公伝以降である。
仏教と仏教建築が普及された時期、各地域の古来からの「祈りと祭り」の場(神社)も平行して整えられた。
ハ)今回はそれ以前の縄文・弥生および古墳時代の人々が自然災害にもめげずに子孫の繁栄を祈念し(祈り)互いに励ましあってきた(祭り)を考古学の資料から読み取り発表したいと思います。(発表者談)
春口さんの神社研究は6回目を迎えます。前回に続き日本人の心の原点に迫ります。ご期待下さい。

森岡 璋さん 演題「 松陰日記を読む 」( 柳沢吉保伝 )
イ)柳沢吉保は万治元年江戸市ケ谷に生まれ幼名は弥太郎、18歳で家督を継ぎ保明と名乗る。家禄530石、館林宰相綱吉に仕える。小納戸役から側用人に登用され、川越城主を経て後に甲府城主20万石を領し大老格となる。この間元禄14年松平姓を許され綱吉の吉を貰い吉保と改める。
ロ)この異常な出世の故か歴史上の世評は総じて芳しくないが、柳沢の悪評の殆どは後世の捏造であり、悪法と言われた生類憐みの令と重ねて脚色された歌舞伎や俗書により柳沢佞臣説が流布されることになった。
ハ)今回は側室正親町町子の日記から元禄時代という時代背景、将軍綱吉と吉保の関係、吉保の交友関係より伺える人脈と圧倒的な政治力と影響力を読み解くこととしたい。結論は実直に将軍綱吉を支え数々の難題の処理に当った能吏の姿であり、一方では学問を好み和歌に優れた教養人である。大名としては領民を大切にし、川越城主時代には三富地区の開拓事業を完成し、甲府城主時代には甲府八珍果を始めとする産業振興を進めるなど領国経営にも優れた名君であった。側室正親町町子の日記から伺える柳沢吉保の素顔を紹介し、将軍綱吉を支えた能吏としての実績を検証する。
出世の節目になった時の町子さんの日記原文を紹介しながら発表をされます。こうご期待
(写真)岩波文庫カバーより六義園図原本は国立国会図書館蔵「六義園図」

進藤 洋輔さん 演題「 小机城址を訪ねて 」
イ)今年、当初の予定では昨年のテーマを引き継ぎさらに追及すべく考えていたのだが、どうにも行き詰まってしまい、それなら!とこれも比較的身近にあって以前より関心を寄せていた小机城を取り上げ調査することにした。
ロ)小机城址は現在横浜市民の森の一つとして整備されており、竹林に覆われ静かな佇まいを見せる小高い丘となっている。私が数年前に訪れた時には何の変哲もないこじんまりとした、やたら竹が多い自然公園・・・程度の認識しか持たなかった。しかし今回改めて訪ね調べてみると空堀の巨大さに示される如く、城としての堅牢さと背後に豊かな歴史を抱えている見事な城であることが判った。同時期に存在した茅ケ崎城ほどは整備されておらず、適度に野趣味を備えた見事な古城である。
ハ)地域の人々に昔から愛され春と秋にはお祭りが開かれ、特に春に行われている「小机城祭り」では鎧兜に身を固めた武者行列が賑やかに行われている。今日は、そんな小机城の素晴らしさと、関東の戦国時代の奔りとでも言うべき太田道灌が登場するその歴史を皆さんに紹介しようと思います。
小田原城の支城としても名高い小机城の案内、楽しみですね。
(写真)小机城址

◇10月例会終了

10月1日(月)1時より横浜開港記念会館で開催
【研究発表】
竹内 秀一さん 演題「 神奈川の古代直線官道について 」
イ)長い間、古代の道は細くて曲がりくねっているものと思われていました。ところが1970年代に入って古代の道に幅が広く直線的な道路があることが分かってきました。
その後の発掘や研究によって、側溝付き幅9~12mの直線的に目的地をつなぐ大規模な計画道路が、なんと全国に張り巡らされていたことが明らかになってきました。しかしながらこの古代の直線官道が、いつ、誰によって、何のため造られたのか、まだまだ多くの謎があり全貌は分かっていません。
ロ)皆様、現代の神奈川県の地図を見て何か不思議に思われませんか? 国道246号や中原街道がほぼ直線で右上45度に平行して走っているのが・・・ 現代にも古代に遡る直線官道の痕跡が結構残っています。
大半は地下に埋もれていますが、一部は現在の道路に継承され地図で分かるものもあります。
ハ)鎌倉時代や江戸時代の道は新しすぎてつまらない・・・ 私の趣味はこの奈良時代以前に遡る古代直線官道を探索することです。今回は主に神奈川県内の古代直線官道について地図や写真を使ってお話させていただきました。

吉田 友雅さん 演題「 武田信玄の大将として 」
イ)武田信玄は戦国時代の英雄であり大武将であった。徳川家康・織田信長ともに恐れをなした人物である。特に徳川家康は作戦・政治面で信玄の影響を多く受けたと言われる。
ロ)信玄の大将としての考え方をいくつかの視点から捉えたい。
「慈悲を忘れの事が肝要である」家臣の板垣信方・甘利虎泰・飯富虎昌また治山治水を通して慈悲とは何かを述べたい。「適材適所で人材を生かす」多様な人材をどう的確に結び付け最大の力を発揮させるかが大将の力である。武
田24将を始め実に多彩な人材が結集している。信玄は人材登用の名人であった。「正しき人物の見方」信玄は大身、小身共に人を見そこのふ邪道七ツ之事として人物の本質を見誤りがちと言う。
「賢将は五分の勝利を上とす」信玄の勝負についての考え方。「人心の離反は一国の滅亡となる」すべての変化に対応していくのが大将であり、時流を捉え時代を知るべきである。
ハ)一部では戦国時代の生んだ冷酷非情の大将と言われる信玄だが、以上五つの視点から信玄の大将としての考え方を検証したい。現代は便利になりすぎ情報が溢れ人間関係の希薄さが生まれている。信玄の考え方は私たちに何かを教訓を残してくれるだろう。

槙 良生さん 演題「 幕末、維新、そして明治を駈けた宇和島藩 」
イ)かつて江戸時代も末期、四国の西南、伊予宇和島藩10万石に松平春嶽、山内容堂、島津斉彬と共に「四賢侯」と称された藩主がいた。宇和島伊達家の8代目宗城(むねなり)である。
ロ)宇和島という地は江戸から1000Kmの彼方、四国の果てと言っても過言ではない。外様であり、石高も10万石ほどで決して多くはなかった。 宇和島はリアス式海岸で急峻な山岳が迫っており、米は不足しがちで藩政は困難の連続であった。だが、これが高野長英を匿い、大村益次郎を育て上げ薩長土肥の雄藩と並んで幕末に大いに国政に関与したのであった。
ハ)なぜ、このような藩が指導的な役割を果たすことが出来たのだろうか。
今回は藩主宗城に焦点をあてて、彼自身の活躍のみならず彼の下で育った藩士や領民たちが、激動の幕末、維新、そして明治の新しい世を疾風のごとく生き抜いていった姿を振り返っていきたいと思う。