横歴 例会のご案内

再開9月例会は横浜開港記念会館・講堂で行われます

順延続きになっていました横歴例会を9月6日(日)より再開します。

第一部 会員発表
木村 髙久さん 演題『 乙巳(いっし)の変と大化改新の真相 』

(午後1時10分~2時25分)質問時間含む
日本最古の正史である『日本書紀』が第44代元正天皇に奏上されてから今年で1300年となる。この節目の年に因み『日本書紀』の論点の一つと言われる「乙巳の変と大化改新」について真相を究明することとした。「乙巳の変」について『日本書記』は次のように記述する。西暦645年6月、飛鳥板(いた)蓋宮(ぶきのみや)で皇極天皇が臨席のもと三韓の朝貢の儀が行われた。その最中に中大兄皇子と中臣鎌子らにより蘇我入鹿が暗殺され、翌日、父の蝦夷も自殺して蘇我本宗家は滅亡したとある。ところがこの首謀者(黒幕)は中大兄皇子ではなく軽皇子(かるのみこ)である、皇極天皇だ、いや中臣鎌足だなどと言う諸説がある。そこで、一体誰が真の首謀者であり、何故実行したのかの事由について解明していきたい。
「大化改新」では乙巳の変の翌年646年に孝徳天皇から「改新(かいしんの)詔(みことのり)」が発せられた。ところがこの詔の信憑性を巡り論争が起きると共に、大化改新否定説が提起された。これをどのよう
に判断するのかを論ずるものである。(発表者談)
(写真)蘇我入鹿暗殺絵巻*HP・ウイキペディア(乙巳の変)から引用(多武峰縁起絵巻)
第二部 特別講演会 演題「 西洋と日本の城―比較と検証 」
講師・西野 博道 先生 (茨城大学講師)
(午後3時00分~4時30分)
講義概要
「カステラ」「ハンバーグ」「シャトーワイン」…みんなもともと城郭用語です。ヨーロッパの城と日本の城の共通点と違い、その影響関係について、豊富な画像を使いながら、古代・中世・近代と時代を追って紹介します。特に、従来、日本の歴史学者、城郭研究家が指摘してこなかった両者における影響関係についての解説はご期待下さい。
略歴
・早稲田大学卒業後、同大学院修士課程修了。
・専攻は英ロマン派研究、特にスコットの歴史小説。
・高等学校教諭を経て、早稲田大学、明治大学、埼玉大学、文教大学等で講師を歴任し現職。
埼玉城郭研究会顧問。

著書
・『イギリスの古城を旅する』1995年:双葉社、2000年双葉文庫
・『関東の城址を歩く』2001年:さきたま出版会
・『日本の城郭・築城者の野望』2009年:柏書房
・『日本の城郭・名将のプライド』2009年:柏書房
・『江戸城の縄張りをめぐる』2011年:幹書房
・『埼玉の城址30選』2005年:編著・埼玉新聞社
・『続・埼玉の城址30選』2008年:編著・埼玉新聞社
・『戦略戦術兵器辞典➎ヨーロッパ城郭編』1997年:共著・学習研究社
・『スコットランド文化事典』2006年:共著・原書房
・『21世紀イギリス文化を知る事典』2009年:共著・東京書籍ほか

5月例会は延期になりました

5月の例会は3月・4月に引き続きコロナウィルスのため中止延期となります。スケジュールの変更は改めてご案内します。

[中止延期]令和2年5月4日(祝・月)1時より 横浜開港記念会館

大瀬 克博さん 演題『 義和団事件の英雄・会津人柴五郎の生涯 』

会津人・陸軍大将柴五郎は欧米で広く知られることになった最初の日本人です。

柴五郎10歳の時に戊辰戦争の会津攻防戦で祖母、母、嫂、姉、妹が自刃して亡くなります。

そして会津藩の斗南藩移封により父に連れられ極寒の地・下北半島に移住し辛酸を舐める幼少時代を送ります。

その後、陸軍幼年学校に入り卒業後はアメリカで陸軍武官として米西戦争の見学、そして諜報活動を兼ね北京から朝鮮を縦断し各国の文化や国民性を学びます。

1900年に起きた義和団事件では外国11ヶ国の公使館関係者900名と中国人3,000名が籠城して義和団と戦います。55日間の籠城戦で最も素晴ら

しい活躍をしたのが柴中佐に率いられた日本軍で、司令官の柴はコロネル・シバとして世界で名声を博します。              その時に英国が持った日本への信頼が日英同盟につながったと言われます。

福島県で初の陸軍大将となった柴五郎の激動の生涯、楽しみです。(写真/会津人 柴五郎)

高野 賢彦さん 演題『 大王(おおきみ)を支えてきた大伴氏の最期 』

大伴氏は天孫降臨族であろう。その名の示すとおり大王の側近としての軍事・警備の長官となり有力な名門貴族として存在してきた。ところが貴族でもない藤原鎌足・不比等・仲麻呂が藤原氏の支配権を確立しようとして貴族や同僚を次々に屈服させ、ついに大伴氏をも没落させてしまった。

藤原氏に対して大伴氏は安麻呂・旅人・家持が対応していたが、人事権を掌握していた藤原氏、特に仲麻呂は他の貴族らに対してと同様に大伴氏に対しても地位や官職を昇進させながら、巧妙に追い落としていった。

今日、藤原氏が繁栄しているのはその結果ではなかろうか。

家持は途中で藤原氏の謀略、没落してゆく大伴氏の行く末に気が付いたようである。しかし、その時はすでに遅かった。そこで家持は得意としている歌を収集して歌集を作ることを思い立ち、大伴氏の鎮魂歌として『万葉集』の編纂に注力したのではないであろうか。

歌人として知られる大伴家持ですが、本来の官吏としての家持の姿興味深いですね。(写真/大伴家持 三十六仙額)

清水 漠さん 演題『 赤備え 虎昌・景昌 & 直政・幸村 』

戦国時代の武将(大名)にとって「備え」とは自己・領土を守り、他国の領土を奪うため<強い軍事力の保持>。それが最大の「備え」であった。

武田の赤備え:<甲山の虎>と呼ばれ、最初に【赤備え】で武装させた飯富虎昌。虎昌死後は弟(甥とも)<武田四天王>の一人・山県昌景に。

【赤備え=精鋭・最強集団】というイメージが諸大名に定着した。

井伊の赤備え:武田氏滅亡後、昌景の遺臣達は井伊直政につけられ【井伊の赤備え=赤鬼】に。真田の赤備え:大阪夏の陣、豊臣方についた真田幸村(信繁)は武田家由来の【赤備え】で部隊を編成し、家康本陣を攻撃し突き崩しを成し遂げる。

赤は戦場で目立ち標的になり易いが、敢えて赤備えで勇を示した精鋭部隊、面白そうですね。(写真/山県昌景肖像 山県館蔵)

4月例会のご案内7月に延期

令和2年7月日時場所未定

長谷川 憲司さん 演題『 近代日本が生んだ世界的細菌学者 野口英世 の実像 』

細菌学者野口英世は戦前は修身、戦後は国語の教科書にも取り上げられており、立志伝中の科学者として、千円札にも取り上げられる程多くの日本人に愛されてきました。

英世は貧窮と左手傷害からの逆境を跳ね返し、「忍耐」、「勤勉」、「努力」、「意志の強さ」「立志」による偉人と高く評価されてきましたが、真の英世の人物像、

特に科学者としての世界的業績はその時代、更にその後においても十分に評価に耐え得るものであったのでしょうか。

後世の人々によって多くのことが云い伝えられていますが本当の英世の人物像はどうであったのか? 最後に世界的に注目を集めた「黄熱病」で命を落とすことになった医学者野口英世が残した細菌学の業績は真に国際的にどのような評価がされているのか? このような観点に立って、明治の偉人野口英世の人物像を簡潔に掘り下げてみました。(発表者談)今回が初めての発表ですが、同じく医学界に身をおく長谷川さんの発表楽しみですね。

(写真/ロックフェラー医学研究所実験室にて野口英世 41歳)

斎木 敏夫さん 演題『 宇佐八幡と八幡神 』

日本の神社数第一位は稲荷社で第二位が八幡社です。702年の戸籍台帳によると豊前の人口の9割以上が秦氏であり「秦王国」を形成していたと記載されています。秦氏一族は豊前に留まらず山背国(太秦)など各地に拡がり、様々な活躍をしました。八幡神の「八幡」は唐の軍制の象徴である「八幡・四鉾」の八幡に由来するといわれ、新羅系の渡来人の秦氏が持ち込み、それと古来の海神の宗像三女神信仰が習合し、更に隼人征服の過程で 八幡神と応神天皇が一体化し、宇佐八幡が成立しました。そして749年大仏造立のために東大寺鎮守・手向山八幡宮の神として入京しました。

781年頃朝廷は宇佐八幡神に「護国霊験威力神通大菩薩の号を授け、「八幡大菩薩」となりました。859年宇佐八幡宮から八幡大菩薩を男山に勧請し、翌年八幡造の社殿を造営しました。山城と摂津の国境で都の裏鬼門にあたり、王城守護の役割で勧請されました。

源義家が当社で元服したこともあって八幡太郎義家と名乗り、武神とし快慶作 東大寺として信仰され、源氏の広がりとともに鶴岡八幡宮など各地に八幡宮が勧請され、源氏の氏神となりました。これにより全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、現在に至っています。誰でも知っている八幡神、でも詳しい由来は・・・・・これを機会に勉強しましょう!

(写真 僧形八幡神座像〈国宝〉)

高尾 隆さん 演題『 間宮林蔵は善人か悪人か 』-歴史は後世に脚色されるー

先日朝日の文化欄に、奈良時代の文人政治家吉備真備が中国の留学中に書いたという“墓誌”発見の記事があった。亡くなった唐王朝の官僚の業績等を記したもので、「日本」の文字が確認できる4例目という貴重なものであるという。しかし中国の一部の研究者から「日本人に唐の官僚の墓誌を書かせるはずがない」といった偽物説が出ているそうだ。

この感情的ともとれる反対説にあるように、歴史は向き合おうとする人間の考えによってどのような方向へも進むのである。発表させていただく間宮林蔵は「間宮海峡」を発見した世界的な探検家という称号と、シーボルトを追放した隠密という後世の評価がある。

前者は過酷な体験をしながら海峡へたどり着き、大陸へ渡るという快挙を果たし、幕府からも認められる。後者はシーボルト事件の密告者や西国諸藩の密貿易を摘発したスパイ役という汚名である。しかしこの両者が究明されたのは明治以降である。それは正しい見方なのか、歴史研究は面白いが、恐ろしいことでもある。(発表者談)

(写真/岡堰の間宮林蔵像)

3月例会のご案内 臨時休講

3月の例会は新型コロナウィルスの感染を考慮し休講といたしました。予定されていた方々の発表は5月に改めて行っていただく予定です。

令和2年3月2日(月)1時より 横浜開港記念会館

大瀬 克博さん 演題『 義和団事件の英雄・会津人柴五郎の生涯 』

高野 賢彦さん 演題『 大王(おおきみ)を支えてきた大伴氏の最期 』

清水 漠さん 演題『 赤備え 虎昌・景昌 & 直政・幸村 』

◇2月例会

令和2年2月2日(日)1時より 横浜市開港記念会館

真野 信治さん 演題『 細川藤孝 その謎の出自に迫る 』

2020年大河ドラマ「麒麟がくる」は久しぶりの戦国ものとなりました。今回は、ドラマの主人公・明智光秀の盟友とも言われた細川藤孝(幽斎)を取り上げてみました。

光秀はその出自が土岐氏であるとの説がありますが、確実な史料が残されているわけではありません。実は将軍奉公衆でもあった細川藤孝も同様にその出自に問題があるとする研究成果があります。

果たして、足利一族の名門である細川氏を出自とするのか? 謎を解く鍵を握っているのは誰か? 系譜史料を踏まえながら、総合的観点からアプローチをしてみたいと思います。

また簡単ですが明智氏の系譜についてもちょっと触れてみたいと思います。(発表者談)

真野さんは日本家系図学会でも活躍されています。専門力を生かしての発表にご期待下さい。

(写真)細川藤孝(幽斎)

佐藤 猛夫さん 演題『 私の歩いた五街道 (甲州街道編)』

甲州街道は、江戸日本橋から八王子、甲府を経て信州下諏訪宿まで53里余り(約210Km)の街道です。宿場は45宿を数えますが、他の4街道に比べて規模が小さく、一つの宿では宿場の機能を十分に果たせず、隣の宿と合宿で何とか役目をこなしてきた宿もありました。

ロ)東海道の箱根路や中山道の木曽路のような華やかさのない地味な街道ですが、それぞれの街道にはそれぞれの歴史と風景があります。

八王子から甲府盆地に至るまでは山間の集落を縫うようにつなぎ、甲府から先は釜無川に沿って甲斐駒ヶ岳

や八ヶ岳を仰ぎ見ながら歩く街道です。そんな甲州街道で目にしたものや気がついたことなどをお話ししたいと思います。

この5月の一泊二日バスツアーは甲州・山梨です。事前学習として聴きたいと思います。

(写真)桂川にかかる猿橋(大月市)

堀江 洋之さん 演題『 童謡詩人・野口雨情と尊王攘夷の系譜 』

野口雨情は童謡詩人であるが次の逸話が残っている。酒席で女子供の歌しか作れないだろうとからかわれた数日後、桜田門外の変を起こした「桜田烈士を讃える」の詩を送ってきたという。

野口雨情の家は元水戸郷士であった。日頃伯父・野口勝一(県会議長)が桜田烈士を讃えていたのを知っていたからである。

雨情の生家磯原は大平洋に面し、数キロ先に大津浜があり文政7年鎖国中の日本の地に英国人船員が無断で上陸し、幕末の海防戦略が破られている。(大津浜事件)このとき水戸藩は必至で対応をした。

野口雨情の家系は茨城人名辞典によると「その祖は、楠七郎正季二世の孫正建より出る」とあり「三河国賀茂郡野口村に隠棲し、地名を以て氏となす。」とある。また雨情の姪・野口千鶴子女史によれば伯父雨情

から楠正光(楠正季の弟)の子孫であると教えられたのを覚えているとの事。

平成30年5月の横歴バスツアーで茨城の徳川光圀隠棲地「西山荘」に行きました。受付入口右側の丘の途中にあった詩碑の作者は野口勝一で、雨情の伯父とのことです。堀江さんは野口家の親戚でもあり、今回の発表が楽しみですね。(写真)野口雨情