横歴 例会のご案内

9月例会は9月11日(土)開催

令和3年9月11日(土)午後1時より 横浜開港記念会館講堂  

発表者 遠田 千代吉さん 演題 『二上山に偲ぶ 大津皇子山頂墓』
(午後1時10分~2時10分)
イ)謀反の嫌疑をかけられた大津皇子の墓は、二上山の山頂にあるとされている。しかしながら、7世紀後半に古墳が山頂に造営されることは有り得ない。何故、大津皇子の墓は、二上山の山頂にあるとされるのだろうか?その背景には、何らかの理由があるに違いない。
ロ) 墓の所在地を記す最初の文献は、『万葉集』の「大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る」との題詞である。その後、「二上山墓」は伝承としては語り伝えられたものの文献史料はなく、江戸時代の『大和志』の中で「山頂墓」として記述されただけである。
ハ)以上を背景に、明治初期に墓域が整備されたのが現在の大津皇子の「二上山山頂墓」であり、ここに至る経緯を探って行きたい。(発表者談)
《画像は、宮内庁の二上山墓(発表者撮影)》
→大伯皇女(おおくのみこ)が「明日よりは二上山を弟背(いろせ)とわが見む」と、万葉集の歌を謳った二上山の何処に、本当の大津皇子の墓はあるのでしょうか?聴きのがせません!

発表者 武田 収功さん 演題 『水銀の道 飛鳥池工房遺跡の出土品』(午後2時20分~3時20分)
イ)97年12月から開始された飛鳥池工房遺跡の発掘調査で、直径5ミリ程の一点の銀粒が出土した。分析の結果、銀のアマルガム(水銀の合金)と判明し、付近にはアマルガム法による製錬・精錬過程を示す坩堝類なども見つかった。
ロ)この事実は、古代のわが国で鍍金(メッキ)が既に行われていた可能性を示す重要な発見であり、この技術が後の東大寺大仏造営の基礎技術となったことは想像に難くない。一粒の銀粒は、工房の技術集団の好奇心と無心の努力を想像させる。それは、天武・持統朝の律令国家体制を支えた技術・工業の礎となったと考えられる。
ハ)発表では、鍍金に必要な辰砂・水銀がどの地域から工房に運ばれたのか、また飛鳥に向かう「水銀の道」の経路がどのような道であったのかを地理的に外観する。(発表者談)
《画像は、海石榴市付近の大和川で、長谷方面を望む(発表者撮影)》
→古代ヤマトの「水銀の道」は、何処にあったのでしょうか?化学の専門家でもある武田さんの初めての発表です。ご期待下さい!

発表者 植木 静山さん 演題・・・『幕末、サムライ達の「北方領土交渉」』
(午後3時30分~4時30分)

イ)嘉永6年(1853)6月、アメリカのペリー提督が浦賀に来航したが、翌月には、今度はロシアのプチャーチン提督が長崎に来航して、開国と交易のほかに北方領土と国境を定めたいと提案してきた。
ロ)ロシアは、中東でも南下政策を進めてオスマントルコと対立しており、これを支援する英仏とも対立していたが、勿論日本にはそんな海外事情は分からなかった。やがて、ペリーが強力な艦隊を率いて江戸湾に再来して日本を開国させ、幕府は和親条約を結んでしまう。次に、長崎にやって来たのは、ロシアではなく、世界最強のイギリス艦隊であった。
ハ)イギリスはクリミヤ戦争でトルコに味方しており、日本にロシアの領土拡張の意図を伝えてイギリスとの条約を迫り、のちの日英同盟に通じる条約を結ぶ。一方、再度単船で乗り込んだプチャーチンは下田で帆船を失うが、日本は帰国用の洋式帆船の建造を支援する。やがて、結ばれた日露通好条約には、北方領土四島が日本の領土として明記された。しかし、それは日本の支援による結果ではなかったが、プチャーチンは日本の支援を終生忘れることはなかった。(発表者談)
《画像は、ウィキペディア「北方領土問題」による》
→多数の著書を発表されている植木さんが、知られざる幕末の「北方領土問題」に切り込まれます。お楽しみに!

8月例会は8月14日(土)に開催されます

令和3年8月14日(土)午後1時より 横浜開港記念会館講堂  

発表者 遠田 千代吉さん 演題 『二上山に偲ぶ 大津皇子山頂墓』
(午後1時10分~2時10分)
イ)謀反の嫌疑をかけられた大津皇子の墓は、二上山の山頂にあるとされている。しかしながら、7世紀後半に古墳が山頂に造営されることは有り得ない。何故、大津皇子の墓は、二上山の山頂にあるとされるのだろうか?その背景には、何らかの理由があるに違いない。
ロ) 墓の所在地を記す最初の文献は、『万葉集』の「大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る」との題詞である。その後、「二上山墓」は伝承としては語り伝えられたものの文献史料はなく、江戸時代の『大和志』の中で「山頂墓」として記述されただけである。
ハ)以上を背景に、明治初期に墓域が整備されたのが現在の大津皇子の「二上山山頂墓」であり、ここに至る経緯を探って行きたい。(発表者談)
《画像は、宮内庁の二上山墓(発表者撮影)》
→大伯皇女(おおくのみこ)が「明日よりは二上山を弟背(いろせ)とわが見む」と、万葉集の歌を謳った二上山の何処に、本当の大津皇子の墓はあるのでしょうか?聴きのがせません!

発表者 武田 収功さん 演題 『水銀の道 飛鳥池工房遺跡の出土品』(午後2時20分~3時20分)
イ)97年12月から開始された飛鳥池工房遺跡の発掘調査で、直径5ミリ程の一点の銀粒が出土した。分析の結果、銀のアマルガム(水銀の合金)と判明し、付近にはアマルガム法による製錬・精錬過程を示す坩堝類なども見つかった。
ロ)この事実は、古代のわが国で鍍金(メッキ)が既に行われていた可能性を示す重要な発見であり、この技術が後の東大寺大仏造営の基礎技術となったことは想像に難くない。一粒の銀粒は、工房の技術集団の好奇心と無心の努力を想像させる。それは、天武・持統朝の律令国家体制を支えた技術・工業の礎となったと考えられる。
ハ)発表では、鍍金に必要な辰砂・水銀がどの地域から工房に運ばれたのか、また飛鳥に向かう「水銀の道」の経路がどのような道であったのかを地理的に外観する。(発表者談)
《画像は、海石榴市付近の大和川で、長谷方面を望む(発表者撮影)》
→古代ヤマトの「水銀の道」は、何処にあったのでしょうか?化学の専門家でもある武田さんの初めての発表です。ご期待下さい!

発表者 宮下 元さん 演題 『はじめにコトバありき?』
(午後3時30分~4時30分)
イ)われわれ新人(ホモ・サピエンス)は、ネアンデルタール人などの旧人とどこが、どう違うのか?人類は6万年前の知能
のビックバンから、高度な技術文明を築いた。
ロ)当初の文字は、表意文字であった。最古の文字はエジプト文 明のヒエログリフ(神聖文字)であるが、ロゼッタストーンが
発見されてから、シャンポリオンが解読に成功するまで20年が掛かった。それは謎解きのドラマだった。
ハ)その後、表意文字は次第に廃れ、中国の漢字以外は表音文字のアルファベットに淘汰されてしまった。では、音声言語
はどうであったのか?コトバは人類が協力し合うために有効なコミュニケーションであり、直立歩行で脳と喉が解放されて、複雑な発音と自由構文を獲得した。(発表者談)       《画像は、アブ・シンベル大神殿のカルトゥーシュ文字》
→コトバと人類の関係を、ゲンさんが解き明かします。目からウロコになること、請け合いです。お楽しみに!

7月例会は7月3日(土)開催

令和3年7月3日(土)午後1時より 横浜開港記念会館講堂  

発表者 瀬谷 俊二郎さん 演題 『膨張の70年(PART 1) 』
(午後1時10分~2時10分)
イ)日本の近代化は、明治維新を起点としている。そして、その明治維新とは、天皇を擁した薩長勢力が官軍となり、鳥羽伏見の戦いで賊軍となった幕府勢力を破って新政府を樹立したところから始まる。
ロ) この時代を世界史的に見ると、いわゆる帝国主義の時代で、イギリス・フランス・オランダ、少し遅れてアメリカ・ドイツ等の先進欧米諸国が、覇を競って統治領域や通商領域の拡大を図っていた時代であり、日本は被植民地化の恐怖から早急に国を近代的な統一国家にまとめ上げ、一刻も早く先進国となる必要があった。
ハ)このような環境下で、薩長の下級武士を中心とした新政府が懸命に取り組んだ諸施策が、その後の日本の膨張へと繋がっていくことになる。具体的には、富国強兵・殖産興業・国民教育を三本柱とした諸施策である。(発表者談)
《画像はビゴーの日露戦争の風刺画より》
→昭和の日本敗戦の遠因は何処にあったのか? 経済学にも造詣の深い瀬谷さんの近現代史の総決算とも言えるご発表です。ご期待下さい。

発表者 森岡 璋さん 演題 『将軍綱吉と柳沢吉保』(午後2時20分~3時20分)
イ)前回の発表では、柳沢吉保が僅か530石で綱吉に仕え、大老格の二十二万石余の大名に出世を遂げた道程を紹介したが、今回は、綱吉が何故吉保を厚遇したのか、史料から推察してみたい。
ロ)まず、通算58回に及んだ綱吉の柳沢邸への御成の内容である。綱吉による儒学の講義に始まり、次いで家臣による問答や講釈があり、綱吉自身も数曲舞う能(仕舞もあり)で終わるのが通例であった。
ハ)したがって、理由の一つは急拡大した柳沢家による各分野の当代一流の人材を揃えた最強の家臣団の存在であり、綱吉が満足する知的な時間が演出されていたこと。もう一つは朝廷との接点である。吉保の側室である正親町町子は権大納言実豊の娘であり、兄公通も朝廷の内情に通じていたと推察される。(発表者談)  《画像は甲府恵林寺の柳沢夫妻の墓》
→文献解読がお得意の森岡さんによる、将軍綱吉と柳沢吉保の続編です。なぜ、吉保が大老格の大名になることができたのか? ご期待下さい。

発表者 古谷 多聞さん 演題 『ノモンハン事件の真相 』
(午後3時30分~4時30分)
イ)「日本の兵隊さん 直ちに白旗を掲げて降伏しなさい 君達は完全に包囲されていて後方は遮断されて いる 戦ってもあと2~3日の命です!」
ロ)これは、日本軍将兵に向かってのアメリカ軍の投降の呼掛けではなく、その5~6年前の昭和14年8月に当時の満洲国の国境ノモンハン付近で、日本将兵に送られたソ連軍の放送の内容である。
ハ)今回の発表は、陸軍シリーズ第三弾として、82年前に起きた「ノモンハン事件」をテーマとして、そのプロローグとして事件直前の①日本政府・参謀本部・関東軍の動静、②敵対したモンゴル、ソ連の動向、③事件の遠因となったモンゴルと満洲国の国境問題、に的を絞り、私の独断、独善、偏見、そしてこだわりを織り込みながら、事件の真相をお話しします。(発表者談)
画像は、ゴールドマン『ノモンハン1939』から》
→本来は陸の国境がなかった日本に、満洲国建国により突然新しい「国境」が出現、日本政府と関東軍はこの国境問題にどう対処したのか? 多聞さんの陸海軍オタク・シリーズをお楽しみに!

6月例会は6月12日(土)に開催されます。

令和3年6月12日(土)午後1時より 横浜開港記念会館講堂  

発表者 林 久幸さん 演題 『 後北条氏五代とその後の小田原城 』
(午後1時10分~2時10分)
イ)戦国の魁(さきがけ)、北条早雲のルーツである備中荏原荘(岡山県)、そして高越城は、早雲が生まれてから青年期までを過ごした城で、南北朝の争乱の舞台となった。(幕府政所執事の伊勢氏)
ロ)早雲は、駿河国(静岡県)の守護の今川義忠の正室であった 妹・北川殿を補佐すべく今川家の客将となったが、忠義急死後に今川館を襲撃し、北川殿の子である龍王丸(のちの氏親)を当主に据えた。
ハ)その功により、長享二年(1488)頃に伊豆との国境付近の興国寺城の城主となったが、小田原城を息子の氏綱にまかせて駿河を離れなかったのは、甥でもある今川氏親の後見としての役割だった。併せて、後北条氏五代のあと、大久保忠世~稲葉正勝~十八代大久保忠良までの江戸時代の小田原城について語る。(発表者談)
いよいよ、初登場の林さんです。今まであまり知られていない北条早雲とその後の小田原城について、熱弁をふるわれます。ご期待下さい。

発表者 粟 光行さん 演題 『 聖徳太子 その系譜と業績』(午後2時20分~3時20分)
イ)聖徳太子の父親は、第31代用明天皇で、その父親は欽明天皇、母親は堅塩媛です。さらに、太子の母親、穴穂部間人皇女の父親は同じ欽明天皇で、母親は小姉君、そして堅塩媛と小姉君は蘇我稲目の娘で姉妹、つまり聖徳太子の祖父は欽明天皇、曾祖父は稲目、父用明天皇と母穴穂部間人皇女は異母兄弟となり、天皇家と蘇我氏の両方の血を引くだけでなく、蘇我氏の堅塩媛系と小姉君系の二重の血統を受け継いでいる。聖徳太子は蘇我稲目により人為的に作り上げられた人物に思われてならない。
ロ)『隋書』には、開皇二十年(600)と大業三年(607)の2回にわたる日本の使節の来朝を記載している。ところが、『日本書紀』には大業三年(推古十五年)の小野妹子の遣隋使の記述はあるが、その前の開皇二十年のものはない。この時、隋の文帝に日本のことを聞かれた使者は、女帝の国は未開国と思われる(当時の中国の認識)と考え、訳の分からない返事をして文帝に嘲笑された。
ハ)世界第一の強大国・文明国である隋から、日本ははなはだ野蛮国・未開国と思われ嘲笑された。太子は、この屈辱の思いを心の糧として、以後猛烈なスピードで中国並みの文化国家・律令国家を建設しようと努力する。(発表者談)
粟さんは、久しぶりのご発表です。今年は聖徳太子の遠忌1400年の年で、最近、『私の中国史 漢と司馬遷』を出版され、中国古代史にも詳しい粟さんの聖徳太子論、ご期待下さい。

発表者槙 良生さん 演題『 平民宰相 原敬の生涯』
イ)大正7年(1918)9月29日、日本初の政党内閣が設立された。
これを成し遂げたのが明治後期から大正にかけて活躍した類まれな政治家、原敬である。彼は薩長ではなく南部藩盛岡に生まれ、新聞記者や外交官といった多彩な経験を経て総理にまで上り詰めた。
ロ) 彼には「平民宰相」として極めて高い評価がある一方で、官僚・軍
閥勢力と妥協をしながら政治を進める「斬進主義者」という冷めた見方もあったのである。時はちょうど第一次世界大戦から、米国の台頭、欧州の地盤沈下、ロシア革命、社会主義国家ソビエト連邦の誕生と激動の時代を迎えていた。原はその中にあって、元老山県有
朋などを抑えつつ、政治・経済・軍事・外交と様々な難題に取り組みながら、日本の舵取りをしなければならなかったのである。
ハ)大正10年(1921年)11月4日、原は19時30分に東京駅を出る列車に乗るために改札口に向
かっていたところで暗殺された。今年は丁度没後百年になるので、彼に焦点を充てて、縦横無尽の活躍を通してその真の姿に迫ってみたいと思う。(発表者談)《画像はウィキペディアによる》
→好評の槙良生さんによる近現代の人物評伝シリーズです。今回は、没後百年になる平民宰相として有名な原敬の生涯に取り組まれます。ご期待ください。

4月例会は4月4日(日)に開催されます。

4月4日(日)開港記念会館講堂
発表者 忌部守さん 演題「日本書紀1301年と平城京ツアー」 午後1時10分~2時

イ)昨年は、『日本書紀』が編纂されて1300年の記念の年でした。『日本書紀』は720年に編纂された八世紀初頭の律令政府の謂わば公式見解で、記載された内容のすべてが史実ではありません。例えば、ヤマト王権にとって統治の正当性を主張するためのアマテラス神話、そして律令国家の建設は既に大化改新の時から本格的に始まっていたなどの記述は、編纂時点の潤色に他なりません。
ロ)『日本書紀』潤色の事例や特徴を述べながら、やはり八世紀初頭に完成した現在の奈良市街地に当たる古代の平城京に、皆様をご案内します。青によし奈良の都は咲く花の・・・さしずめコロナ禍中のオンラインツアーという事になるでしょうか?
ハ)復元工事中の大極殿院と朱雀門、昨年再建されたばかりの興福寺中金堂、さらに薬師寺や唐招提寺の堂々たる仏教伽藍、そして奈良貴族たちが平城京の何処に住んでいたのかご案内します。(発表者談)
→邪馬台国、百舌鳥・古市古墳群ツアーに引き続いて、忌部守さんのツアーシリーズの第三弾です。お楽しみください。

特別講演 午後2時30分~4時00分
講師・・・柴 裕之 先生
演題・・・『 山崎合戦の性格-本能寺変後の主導権争い 』

略歴
・昭和48年(1973)東京都生まれ
・東洋大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。博士(文学・東洋大学)
専門は日本中近世移行期(戦国・織豊期)政治社会史。戦国・織豊期の政治権力
と社会についての研究を専門とする。
・現在、東洋大学文学部史学科非常勤講師。
主な著書
【単著】
・『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』:岩田書院、2014年
・『徳川家康-境界の領主から天下人へ-』:平凡社、2017年
・『シリーズ実像に迫る17清須会議-秀吉天下取りへの調略戦-』戎光祥出版、2018年
・『織田信長-戦国時代の「正義」を貫く-』:平凡社、2020年12月刊行予定
【編著】
・『論集戦国大名と国衆20 織田氏一門』:岩田書院、2016年
・『図説 明智光秀』:戎光祥出版、2018年
・『織豊大名の研究8 明智光秀』:戎光祥出版、2019年
・『図説 豊臣秀吉』:戎光祥出版、2020年
【監修】
・すずき孔『マンガで読む 新研究 織田信長』:戎光祥出版、2018年
・すずき孔『マンガで読む 信長武将列伝』:戎光祥出版、2019年

総会後、初の例会となります。感染防止とリスクを最小限に抑えるために引き続き検温・消毒・マスクの着用と間隔を空けてのご着席にご協力お願いいたします。会としては今後ともコロナ感染の進捗状況を見ながら例会開催の可否を判断します。今後の予定についてはHPに随時掲載および班長からの連絡にてご確認ください。

定期総会開催、新春講演会中止

感染リスクを極力避けた例会開催を実施いたします。

1月11日(月・祝)の総会は会員の感染リスクを極力避けるという方針で催行されました。また、当日の新春講演会は中止となりました。改めまして、芝先生の講演は4月4日に順延(予定)となります。総会では昨年度の収支報告や本年度の予算案、活動予定、役員人事などの報告が行われ、出席者および委任状による承認を頂きました。

2月例会も休止いたします。

2月例会の開催は緊急事態制限下となりますので、休止順延いたします。併せて今後の例会開催等も新型コロナ感染状況を踏まえての実施となります。活動予定の進捗は逐次ご案内いたしますのでよろしくお願いいたします。

1月11日(月・祝)令和3年度定期総会・新春講演会が行われます

令和3年度の定期総会・新春講演会を下記の通り開催致しますので万障お繰り合わせの上、皆様のご出席をお願い申し上げます。定期総会は令和2年度の総括と当会の今後の方向を定める会です。ご出席いただけない方は出欠席はがきを必ずお出しいただくようお願いいたします。(12月30日までに投函)なお、恒例の新年祝賀会については新型コロナウイルス感染予防のため取り止めとなりますのでご了承のほどお願い致します。
例会に出席の方は年会費(4千円)をお願いしますが、例会費は頂きません。
なお年会費は同封の郵便局振込票による振り込みでも結構です。

*当日は各自マスクの着用をお願いします。
*会場内においては会館からの注意事項を守り、ご参加いただくようお願いします。

1.日 時: 1月11日(月・祝日)
午後1時00分~4時10分
2.会 場:横浜市開港記念会館 講堂
第一部 令和3年度 定期総会(午後1時~2時10分)

主な議題
(1)令和2年度活動報告      (5)会報の発行について
(2)  同上 会計報告      (6)規約改正
(3)令和3年度活動計画      (7)役員異動
(4)  同上  予算案      (8)報告事項 表彰

※ 総会に欠席の回答をされた方は、全議題について議決権を
委任されたこととみなします。
第二部 新春講演会 (午後2時30分~4時00分)
演題・・・『 山崎合戦の性格-本能寺変後の主導権争い 』
講師・・・柴 裕之 先生

大河ドラマ「麒麟がくる」は2月で終了します。クライマックスの本能寺変直後の動向と山崎合戦とはどのような戦いであったのか。NHK BSの特集番組「本能寺の変サミット2020」にも当時代の専門的研究家として登場した柴 裕之先生の講演にご期待下さい。
略歴
・昭和48年(1973)東京都生まれ
・東洋大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。博士(文学・東洋大学)
専門は日本中近世移行期(戦国・織豊期)政治社会史。戦国・織豊期の政治権力
と社会についての研究を専門とする。
・現在、東洋大学文学部史学科非常勤講師。

主な著書
【単著】
・『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』:岩田書院、2014年
・『徳川家康-境界の領主から天下人へ-』:平凡社、2017年
・『シリーズ実像に迫る17清須会議-秀吉天下取りへの調略戦-』戎光祥出版、2018年
・『織田信長-戦国時代の「正義」を貫く-』:平凡社、2020年12月刊行予定
【編著】
・『論集戦国大名と国衆20 織田氏一門』:岩田書院、2016年
・『図説 明智光秀』:戎光祥出版、2018年
・『織豊大名の研究8 明智光秀』:戎光祥出版、2019年
・『図説 豊臣秀吉』:戎光祥出版、2020年
【監修】
・すずき孔『マンガで読む 新研究 織田信長』:戎光祥出版、2018年
・すずき孔『マンガで読む 信長武将列伝』:戎光祥出版、2019年
ほか

12月例会は横浜開港記念会館・講堂で行われます

12月1日(火)開港記念会館講堂
小林 道子さん 演題『 金印発見―志賀島の甚兵衛は何処へ消えたのか 』
イ)「漢委奴国王」印は天明4年(1784)、筑前国志賀島の水田で偶然見つかった。長い間福岡藩の藩庫で保管されていたが、重要な歴史資料ということで昭和6年に国宝に指定されたのち、昭和29年、国宝に再指定された。昭和54年には黒田家から福岡市に寄贈され、その後は平成2年10月に開館した福岡市博物館に移管されている。

金印「漢委奴国王」福岡市博物館蔵

ロ)中国の歴史書『後漢書』には建武中元2年(西暦57年)に光武帝が「倭奴国王」に印綬を与えたことが記されており、金印に刻まれた「漢委奴国王」の5つの文字は漢の皇帝が「委奴国王」に与えた印であることが分かる。そしてこの印が志賀島で見つかった金印と考えられている。
ハ)江戸時代から現代まで金印について研究が行われてきたが、出土状況は不明のままであり、なぜ志賀島から発見されたのか、金印は本物か、第一発見者とされる甚兵衛は実在したのかなど多くの謎が残る。今回の発表では甚兵衛の口上書や金印を鑑定した儒学者亀井南冥、中国の歴史書に記されている倭国、二つの藩校(甘棠館・修猷館)が提出した論考などから、金印の謎を解き明かすために調べたことをお話ししたい。
金印「漢委奴国王」福岡市博物館所蔵

中村 康男さん 演題『 明治新政府、勢力闘争と近代化の歩み 』
~旧土佐藩士大目付下村銈太郎盛俊の役職から読み解く~

「横浜新地蒸気車鉄道之真景」
三代目歌川広重(横浜市中央図書館蔵)

イ)日本の歴史に残る一大改革であった明治維新は、前の体制である江戸幕府を倒し、新たな体制への移行であった。
ロ)政権交代を成し遂げた明治新政府は、列強の欧米諸国に負けない国造りに着手したが、そこで西洋文明を模倣する近代化を目指した。近代化の道のりは、決して平坦ではなく、意見の対立や連続した側面と不連続な側面も持ち合わせた。
ハ)明治新政府における全国統治や近代化という大事業が、どのような統治の行政システムで、どのような人材によって推進されたかを知るうえで、私の高祖父である旧土佐藩士大目付下村盛俊の役職から読み解くことが有意義であったので、ここに記してみたい。
「横浜新地蒸気車鉄道之真景」三代目歌川広重(横浜市中央図書館所蔵)

長尾 正和さん 演題『 元禄期の大大名 良将、善将、悪将、愚将-「土芥冦讎記」- 』
イ)「土芥冦讎記」(どかいこうしゅうき)は、江戸時代が始まって90年後の元禄3年(1690)時点での全国243人の大名についての人物評価を記した書であり、現存するのは東大史料編纂所にある1冊のみである。
ロ)本書は作成目的、編纂者等々不明な点も多く、謎の書とも言われているが、五代将軍綱吉のときの、幕府内部でのマル秘資料であったのではないかとも推定されている。
ハ)現在では元禄期にいた大名について述べるとき時折引用されており歴史学者、磯田通史氏が「殿様の通信簿」という著作で紹介したので存在もだいぶ知られるようになった。 ここでは「良将」、「善将」とされる大名もいる中で、「悪将」、「愚将」などと決めつけられている大大名も多くいる。この書についての研究は極めて少ないが、それらをもとにこの書の資料的価値を探ってみることとする。

11月例会は横浜開港記念会館・講堂で行われます

11月8日(日)開港記念会館講堂

長谷川 憲司さん 演題『 近代日本が生んだ世界的細菌学者 野口英世 の実像 』

細菌学者野口英世は戦前は修身、戦後は国語の教科書にも取り上げられており、立志伝中の科学者として、千円札にも取り上げられる程多くの日本人に愛されてきました。

英世は貧窮と左手傷害からの逆境を跳ね返し、「忍耐」、「勤勉」、「努力」、「意志の強さ」「立志」による偉人と高く評価されてきましたが、真の英世の人物像、

特に科学者としての世界的業績はその時代、更にその後においても十分に評価に耐え得るものであったのでしょうか。

後世の人々によって多くのことが云い伝えられていますが本当の英世の人物像はどうであったのか? 最後に世界的に注目を集めた「黄熱病」で命を落とすことになった医学者野口英世が残した細菌学の業績は真に国際的にどのような評価がされているのか? このような観点に立って、明治の偉人野口英世の人物像を簡潔に掘り下げてみました。(発表者談)今回が初めての発表ですが、同じく医学界に身をおく長谷川さんの発表楽しみですね。

(写真/ロックフェラー医学研究所実験室にて野口英世 41歳)

斎木 敏夫さん 演題『 宇佐八幡と八幡神 』

日本の神社数第一位は稲荷社で第二位が八幡社です。702年の戸籍台帳によると豊前の人口の9割以上が秦氏であり「秦王国」を形成していたと記載されています。秦氏一族は豊前に留まらず山背国(太秦)など各地に拡がり、様々な活躍をしました。八幡神の「八幡」は唐の軍制の象徴である「八幡・四鉾」の八幡に由来するといわれ、新羅系の渡来人の秦氏が持ち込み、それと古来の海神の宗像三女神信仰が習合し、更に隼人征服の過程で 八幡神と応神天皇が一体化し、宇佐八幡が成立しました。そして749年大仏造立のために東大寺鎮守・手向山八幡宮の神として入京しました。

781年頃朝廷は宇佐八幡神に「護国霊験威力神通大菩薩の号を授け、「八幡大菩薩」となりました。859年宇佐八幡宮から八幡大菩薩を男山に勧請し、翌年八幡造の社殿を造営しました。山城と摂津の国境で都の裏鬼門にあたり、王城守護の役割で勧請されました。

源義家が当社で元服したこともあって八幡太郎義家と名乗り、武神とし快慶作 東大寺として信仰され、源氏の広がりとともに鶴岡八幡宮など各地に八幡宮が勧請され、源氏の氏神となりました。これにより全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、現在に至っています。誰でも知っている八幡神、でも詳しい由来は・・・・・これを機会に勉強しましょう!

(写真 僧形八幡神座像〈国宝〉)

高尾 隆さん 演題『 間宮林蔵は善人か悪人か 』-歴史は後世に脚色されるー

先日朝日の文化欄に、奈良時代の文人政治家吉備真備が中国の留学中に書いたという“墓誌”発見の記事があった。亡くなった唐王朝の官僚の業績等を記したもので、「日本」の文字が確認できる4例目という貴重なものであるという。しかし中国の一部の研究者から「日本人に唐の官僚の墓誌を書かせるはずがない」といった偽物説が出ているそうだ。

この感情的ともとれる反対説にあるように、歴史は向き合おうとする人間の考えによってどのような方向へも進むのである。発表させていただく間宮林蔵は「間宮海峡」を発見した世界的な探検家という称号と、シーボルトを追放した隠密という後世の評価がある。

前者は過酷な体験をしながら海峡へたどり着き、大陸へ渡るという快挙を果たし、幕府からも認められる。後者はシーボルト事件の密告者や西国諸藩の密貿易を摘発したスパイ役という汚名である。しかしこの両者が究明されたのは明治以降である。それは正しい見方なのか、歴史研究は面白いが、恐ろしいことでもある。(発表者談)

(写真/岡堰の間宮林蔵像)

10月例会は横浜開港記念会館・講堂で行われます

令和2年10月12日(月)1時より 横浜開港記念会館講堂

大瀬 克博さん 演題『 義和団事件の英雄・会津人柴五郎の生涯 』
会津人・陸軍大将柴五郎は欧米で広く知られることになった最初の日本人です。

柴五郎10歳の時に戊辰戦争の会津攻防戦で祖母、母、嫂、姉、妹が自刃して亡くなります。

そして会津藩の斗南藩移封により父に連れられ極寒の地・下北半島に移住し辛酸を舐める幼少時代を送ります。

その後、陸軍幼年学校に入り卒業後はアメリカで陸軍武官として米西戦争の見学、そして諜報活動を兼ね北京から朝鮮を縦断し各国の文化や国民性を学びます。

1900年に起きた義和団事件では外国11ヶ国の公使館関係者900名と中国人3,000名が籠城して義和団と戦います。55日間の籠城戦で最も素晴らしい活躍をしたのが柴中佐に率いられた日本軍で、司令官の柴はコロネル・シバとして世界で名声を博します。その時に英国が持った日本への信頼が日英同盟につながったと言われます。

福島県で初の陸軍大将となった柴五郎の激動の生涯、楽しみです。(写真/会津人 柴五郎)

高野 賢彦さん 演題『 大王(おおきみ)を支えてきた大伴氏の最期 』

大伴氏は天孫降臨族であろう。その名の示すとおり大王の側近としての軍事・警備の長官となり有力な名門貴族として存在してきた。ところが貴族でもない藤原鎌足・不比等・仲麻呂が藤原氏の支配権を確立しようとして貴族や同僚を次々に屈服させ、ついに大伴氏をも没落させてしまった。

藤原氏に対して大伴氏は安麻呂・旅人・家持が対応していたが、人事権を掌握していた藤原氏、特に仲麻呂は他の貴族らに対してと同様に大伴氏に対しても地位や官職を昇進させながら、巧妙に追い落としていった。

今日、藤原氏が繁栄しているのはその結果ではなかろうか。

家持は途中で藤原氏の謀略、没落してゆく大伴氏の行く末に気が付いたようである。しかし、その時はすでに遅かった。そこで家持は得意としている歌を収集して歌集を作ることを思い立ち、大伴氏の鎮魂歌として『万葉集』の編纂に注力したのではないであろうか。

歌人として知られる大伴家持ですが、本来の官吏としての家持の姿興味深いですね。(写真/大伴家持 三十六仙額)

清水 漠さん 演題『 赤備え 虎昌・昌景 & 直政・幸村 』

戦国時代の武将(大名)にとって「備え」とは自己・領土を守り、他国の領土を奪うため<強い軍事力の保持>。それが最大の「備え」であった。

武田の赤備え:<甲山の虎>と呼ばれ、最初に【赤備え】で武装させた飯富虎昌。虎昌死後は弟(甥とも)<武田四天王>の一人・山県昌景に。

【赤備え=精鋭・最強集団】というイメージが諸大名に定着した。

井伊の赤備え:武田氏滅亡後、昌景の遺臣達は井伊直政につけられ【井伊の赤備え=赤鬼】に。真田の赤備え:大阪夏の陣、豊臣方についた真田幸村(信繁)は武田家由来の【赤備え】で部隊を編成し、家康本陣を攻撃し突き崩しを成し遂げる。

赤は戦場で目立ち標的になり易いが、敢えて赤備えで勇を示した精鋭部隊、面白そうですね。(写真/山県昌景肖像 山県館蔵)

再開9月例会は横浜開港記念会館・講堂で行われました

令和2年9月6日(日)開港記念会館講堂1時開始
第一部 会員発表
木村 髙久さん 演題『 乙巳(いっし)の変と大化改新の真相 』

(午後1時10分~2時25分)質問時間含む
日本最古の正史である『日本書紀』が第44代元正天皇に奏上されてから今年で1300年となる。この節目の年に因み『日本書紀』の論点の一つと言われる「乙巳の変と大化改新」について真相を究明することとした。「乙巳の変」について『日本書記』は次のように記述する。西暦645年6月、飛鳥板(いた)蓋宮(ぶきのみや)で皇極天皇が臨席のもと三韓の朝貢の儀が行われた。その最中に中大兄皇子と中臣鎌子らにより蘇我入鹿が暗殺され、翌日、父の蝦夷も自殺して蘇我本宗家は滅亡したとある。ところがこの首謀者(黒幕)は中大兄皇子ではなく軽皇子(かるのみこ)である、皇極天皇だ、いや中臣鎌足だなどと言う諸説がある。そこで、一体誰が真の首謀者であり、何故実行したのかの事由について解明していきたい。
「大化改新」では乙巳の変の翌年646年に孝徳天皇から「改新(かいしんの)詔(みことのり)」が発せられた。ところがこの詔の信憑性を巡り論争が起きると共に、大化改新否定説が提起された。これをどのよう
に判断するのかを論ずるものである。(発表者談)
(写真)蘇我入鹿暗殺絵巻*HP・ウイキペディア(乙巳の変)から引用(多武峰縁起絵巻)
第二部 特別講演会 演題「 西洋と日本の城―比較と検証 」
講師・西野 博道 先生 (茨城大学講師)
(午後3時00分~4時30分)
講義概要
「カステラ」「ハンバーグ」「シャトーワイン」…みんなもともと城郭用語です。ヨーロッパの城と日本の城の共通点と違い、その影響関係について、豊富な画像を使いながら、古代・中世・近代と時代を追って紹介します。特に、従来、日本の歴史学者、城郭研究家が指摘してこなかった両者における影響関係についての解説はご期待下さい。
略歴
・早稲田大学卒業後、同大学院修士課程修了。
・専攻は英ロマン派研究、特にスコットの歴史小説。
・高等学校教諭を経て、早稲田大学、明治大学、埼玉大学、文教大学等で講師を歴任し現職。
埼玉城郭研究会顧問。

著書
・『イギリスの古城を旅する』1995年:双葉社、2000年双葉文庫
・『関東の城址を歩く』2001年:さきたま出版会
・『日本の城郭・築城者の野望』2009年:柏書房
・『日本の城郭・名将のプライド』2009年:柏書房
・『江戸城の縄張りをめぐる』2011年:幹書房
・『埼玉の城址30選』2005年:編著・埼玉新聞社
・『続・埼玉の城址30選』2008年:編著・埼玉新聞社
・『戦略戦術兵器辞典➎ヨーロッパ城郭編』1997年:共著・学習研究社
・『スコットランド文化事典』2006年:共著・原書房
・『21世紀イギリス文化を知る事典』2009年:共著・東京書籍ほか

5月例会は延期になりました

5月の例会は3月・4月に引き続きコロナウィルスのため中止延期となります。スケジュールの変更は改めてご案内します。

4月例会のご案内11月8日(日)に延期予定

開港記念会館講堂の予定

長谷川 憲司さん 演題『 近代日本が生んだ世界的細菌学者 野口英世 の実像 』

細菌学者野口英世は戦前は修身、戦後は国語の教科書にも取り上げられており、立志伝中の科学者として、千円札にも取り上げられる程多くの日本人に愛されてきました。

英世は貧窮と左手傷害からの逆境を跳ね返し、「忍耐」、「勤勉」、「努力」、「意志の強さ」「立志」による偉人と高く評価されてきましたが、真の英世の人物像、

特に科学者としての世界的業績はその時代、更にその後においても十分に評価に耐え得るものであったのでしょうか。

後世の人々によって多くのことが云い伝えられていますが本当の英世の人物像はどうであったのか? 最後に世界的に注目を集めた「黄熱病」で命を落とすことになった医学者野口英世が残した細菌学の業績は真に国際的にどのような評価がされているのか? このような観点に立って、明治の偉人野口英世の人物像を簡潔に掘り下げてみました。(発表者談)今回が初めての発表ですが、同じく医学界に身をおく長谷川さんの発表楽しみですね。

(写真/ロックフェラー医学研究所実験室にて野口英世 41歳)

斎木 敏夫さん 演題『 宇佐八幡と八幡神 』

日本の神社数第一位は稲荷社で第二位が八幡社です。702年の戸籍台帳によると豊前の人口の9割以上が秦氏であり「秦王国」を形成していたと記載されています。秦氏一族は豊前に留まらず山背国(太秦)など各地に拡がり、様々な活躍をしました。八幡神の「八幡」は唐の軍制の象徴である「八幡・四鉾」の八幡に由来するといわれ、新羅系の渡来人の秦氏が持ち込み、それと古来の海神の宗像三女神信仰が習合し、更に隼人征服の過程で 八幡神と応神天皇が一体化し、宇佐八幡が成立しました。そして749年大仏造立のために東大寺鎮守・手向山八幡宮の神として入京しました。

781年頃朝廷は宇佐八幡神に「護国霊験威力神通大菩薩の号を授け、「八幡大菩薩」となりました。859年宇佐八幡宮から八幡大菩薩を男山に勧請し、翌年八幡造の社殿を造営しました。山城と摂津の国境で都の裏鬼門にあたり、王城守護の役割で勧請されました。

源義家が当社で元服したこともあって八幡太郎義家と名乗り、武神とし快慶作 東大寺として信仰され、源氏の広がりとともに鶴岡八幡宮など各地に八幡宮が勧請され、源氏の氏神となりました。これにより全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、現在に至っています。誰でも知っている八幡神、でも詳しい由来は・・・・・これを機会に勉強しましょう!

(写真 僧形八幡神座像〈国宝〉)

高尾 隆さん 演題『 間宮林蔵は善人か悪人か 』-歴史は後世に脚色されるー

先日朝日の文化欄に、奈良時代の文人政治家吉備真備が中国の留学中に書いたという“墓誌”発見の記事があった。亡くなった唐王朝の官僚の業績等を記したもので、「日本」の文字が確認できる4例目という貴重なものであるという。しかし中国の一部の研究者から「日本人に唐の官僚の墓誌を書かせるはずがない」といった偽物説が出ているそうだ。

この感情的ともとれる反対説にあるように、歴史は向き合おうとする人間の考えによってどのような方向へも進むのである。発表させていただく間宮林蔵は「間宮海峡」を発見した世界的な探検家という称号と、シーボルトを追放した隠密という後世の評価がある。

前者は過酷な体験をしながら海峡へたどり着き、大陸へ渡るという快挙を果たし、幕府からも認められる。後者はシーボルト事件の密告者や西国諸藩の密貿易を摘発したスパイ役という汚名である。しかしこの両者が究明されたのは明治以降である。それは正しい見方なのか、歴史研究は面白いが、恐ろしいことでもある。(発表者談)

(写真/岡堰の間宮林蔵像)

3月例会のご案内 臨時休講

3月の例会は新型コロナウィルスの感染を考慮し休講といたしました。予定されていた方々の発表は5月に改めて行っていただく予定です。

令和2年3月2日(月)1時より 横浜開港記念会館

大瀬 克博さん 演題『 義和団事件の英雄・会津人柴五郎の生涯 』

高野 賢彦さん 演題『 大王(おおきみ)を支えてきた大伴氏の最期 』

清水 漠さん 演題『 赤備え 虎昌・景昌 & 直政・幸村 』

◇2月例会

令和2年2月2日(日)1時より 横浜市開港記念会館

真野 信治さん 演題『 細川藤孝 その謎の出自に迫る 』

2020年大河ドラマ「麒麟がくる」は久しぶりの戦国ものとなりました。今回は、ドラマの主人公・明智光秀の盟友とも言われた細川藤孝(幽斎)を取り上げてみました。

光秀はその出自が土岐氏であるとの説がありますが、確実な史料が残されているわけではありません。実は将軍奉公衆でもあった細川藤孝も同様にその出自に問題があるとする研究成果があります。

果たして、足利一族の名門である細川氏を出自とするのか? 謎を解く鍵を握っているのは誰か? 系譜史料を踏まえながら、総合的観点からアプローチをしてみたいと思います。

また簡単ですが明智氏の系譜についてもちょっと触れてみたいと思います。(発表者談)

真野さんは日本家系図学会でも活躍されています。専門力を生かしての発表にご期待下さい。

(写真)細川藤孝(幽斎)

佐藤 猛夫さん 演題『 私の歩いた五街道 (甲州街道編)』

甲州街道は、江戸日本橋から八王子、甲府を経て信州下諏訪宿まで53里余り(約210Km)の街道です。宿場は45宿を数えますが、他の4街道に比べて規模が小さく、一つの宿では宿場の機能を十分に果たせず、隣の宿と合宿で何とか役目をこなしてきた宿もありました。

ロ)東海道の箱根路や中山道の木曽路のような華やかさのない地味な街道ですが、それぞれの街道にはそれぞれの歴史と風景があります。

八王子から甲府盆地に至るまでは山間の集落を縫うようにつなぎ、甲府から先は釜無川に沿って甲斐駒ヶ岳

や八ヶ岳を仰ぎ見ながら歩く街道です。そんな甲州街道で目にしたものや気がついたことなどをお話ししたいと思います。

この5月の一泊二日バスツアーは甲州・山梨です。事前学習として聴きたいと思います。

(写真)桂川にかかる猿橋(大月市)

堀江 洋之さん 演題『 童謡詩人・野口雨情と尊王攘夷の系譜 』

野口雨情は童謡詩人であるが次の逸話が残っている。酒席で女子供の歌しか作れないだろうとからかわれた数日後、桜田門外の変を起こした「桜田烈士を讃える」の詩を送ってきたという。

野口雨情の家は元水戸郷士であった。日頃伯父・野口勝一(県会議長)が桜田烈士を讃えていたのを知っていたからである。

雨情の生家磯原は大平洋に面し、数キロ先に大津浜があり文政7年鎖国中の日本の地に英国人船員が無断で上陸し、幕末の海防戦略が破られている。(大津浜事件)このとき水戸藩は必至で対応をした。

野口雨情の家系は茨城人名辞典によると「その祖は、楠七郎正季二世の孫正建より出る」とあり「三河国賀茂郡野口村に隠棲し、地名を以て氏となす。」とある。また雨情の姪・野口千鶴子女史によれば伯父雨情

から楠正光(楠正季の弟)の子孫であると教えられたのを覚えているとの事。

平成30年5月の横歴バスツアーで茨城の徳川光圀隠棲地「西山荘」に行きました。受付入口右側の丘の途中にあった詩碑の作者は野口勝一で、雨情の伯父とのことです。堀江さんは野口家の親戚でもあり、今回の発表が楽しみですね。(写真)野口雨情