

「飛鳥の田園に霞む畝傍山」 作句者撮影
3月の例会参加者は84名(会員74名 新会員 3名 ゲスト 7名)でした。
今年は東日本大震災から15年です。今から400年ほど前、1611年に起きた「慶長三陸地震」(被害は北海道から福島辺りまで及んでいる)ではスペインの探検家セバスティアン・ビスカイノが海上でこの津波にあいました。当時の東北の人々がビスカイノの船に向かって比較的安全な沖合で待つように呼びかけ、上陸した後は自分たちも大きな被害を受けていたにもかかわらず、歓待して宿泊先も探してくれたそうです。ビスカイノは日本人は我々を守ってくれたと記しています。(新聞記事より)
助け合いの精神とともに、各自で防災意識も高めていきたいですね。
新入会員
加藤 国雄さん
港南区在住 米沢出身、10年くらい前から上杉鷹山の研究をしている。
花村 恵子さん
大和市在住 日本と中国の古代史と近現代史に興味があり自分なりに勉強していたがこの会を見つけて入会

熊本会長
今日から3月になり寒さも緩んできたと同時に花粉も活発になっているようで、花粉症でつらい方もいるのでは。今年も暑い夏と予想され、35度以上の猛暑日以降、気象庁では40度を超える日の呼び方が付いていないので募集して5月には決められるようです。40度を超える日があまり来てほしくはないですが、一般的になるというのは相当暑くなるのでは。先月は衆議院選挙やオリンピックがありましたね。フィギュアでは逆転優勝で大喜びしました。今週から野球のWBCが始まります。皆が観られるようになるといいですね。

青栁 敏行さん・・・ 演題「皇祖神」

今年は十干十二支の丙午で川崎や平塚のうまが脱走した話を口切に、日(陽)のうまで皇祖神を象徴しているようでよい年にしたいというところから繋げて入っていった。
皇祖神とは天皇家の祖とされる神のことで、一般的に天照大神を指しているが、大和王権時代は髙御産巣日神に象徴される北方系の外来文化と天照大神に象徴される弥生時代の土着文化との二元構造の時代であり、日本人特有のバランス感覚が働いていると推察している。日本書紀の神代には髙御産巣日神を皇祖とする記載もある。天武天皇の中央集権国家を支えるイデオロギーとして神話の一元化を図り、人心を一新するために土着の神の「アマテラス」を中心に置いた。皇祖神転換問題で考慮すべき問題は「神話と歴史の一元化」と「氏族対策としての姓制度の改革」であった。伊勢神宮には天照大神が祭られている。天皇の伊勢神宮への参拝は古代は行われず、明治天皇の参拝が初めてであり、天照大神はここに至って名実ともに皇祖神となった。宮中の八神殿には髙御産巣日神も祭られており、髙御産巣日神を排除することなく、国家神の移行・転換が行われた日本的習合と言える。
歴史研究とは多くの国々がたどった歴史を紐解くことで学び、課題の解決に生かすことである。日本人のバランス感覚が現代においても生きている。互いの文化を否定しないで日本のような和を理念とした有形の契約に基づいて相互理解の理念の世界がくればいいと考えていると結んだ。
(質)密度の高い内容をよくまとめられていて、敬意を表したい。髙御産巣日神に象徴される北方系の文化という、北方系とは具体的にどのあたりをいうのか。
また外来文化の入ってきたというのは文化だけか、権力も入ってきたのか。
(応)最初に九州北部に入ってきたのは一番近い朝鮮半島、中国の影響が朝鮮半島を経由して入ってきたのか、どちらかは決められず、両方入ってきたのではと。
半島で起こった戦い(白村江等)があり、帰化人が大量に日本に入ってきたが、日本にない文化を持ち込み自分たちなりの神の在り方、考え方を持ち込んできた。自分たちの新しい政治体制、自分たちの神を立ち上げて、住みやすく暮らしやすくしたのでは。

幅広く難しかったかと思うが、髙御産巣日神というのは農業生産の神です。なぜ日の神の天照大神になったのか。今までの大和朝廷から律令制度の天皇中心になり、物部氏や大伴氏は髙御産巣日神だったので同じにせず、天皇祖先の神を天照大神にした。神話は面白い、一例をあげると、天照の子孫であるニニギノミコトはコノハナサクヤヒメとイワナガヒメを与えられたが器量の良くないイワナガヒメを返してしまい、永遠の命を受けられなかった。神話には裏がある、後付けでしょうが面白い。
藤田 実さん・・・演題「満州開拓移民 ー どのように始まったのか」
今回初めての発表の藤田さん、入会当初より満州開拓移民について調べていると聞いていた。20年前に伯父さんが満蒙開拓青少年義勇軍に参加していたことを知り、調べ始めたとのこと。参考資料として「満州開拓民入植図」を貼って臨んだ。満州開拓移民には成人からなる一般開拓民と16歳から19歳の青少年が対象の満蒙開拓青少年義勇軍との二つの形態がある。満州についての名称、地域、統治の状況やロシアとの国境についての説明後、時代背景やどのように始まったかを中心に話された。日露戦争終結後、ロシアは満州から全面撤退したが日本に対しての賠償金支払いはなかった。関東軍による支援の下で、奉天軍閥の張作霖が満洲を実効支配下に置くようになったが、張作霖は北京に進出して日本の満洲保全の意向に反したため、関東軍は張作霖の暗殺を謀った。関東軍の河本大作陸軍大佐が張作霖爆殺事件の首謀者である。昭和7年(1932年)に溥儀を擁立し満州国を建設した。幕末以降増え続けていた日本の人口は、昭和元年以降毎年100万人づつ増え続け、農耕地が不足し就職難の時代となった。
重要国策として、大正期に行われていた小規模な開拓移民は、昭和7年に493人の第一次試験移民、翌8年には455名が第二次試験移民となったが退団者も多く、匪賊による被害も出た。試験移民の退団者は質が悪く、純粋な少年に教育をしてから入植させるさせる満蒙開拓青少年義勇軍が開始された。今回は満州開拓移民が始動した時点までの発表とのことで、次回以降、引き続きの研究発表が期待される。
(質)質問ではなく、お礼です。自分の父親も満州にいたが多くを語らなかった。日本に帰る時にソ連兵から銃撃を受けたという話を母から聞いた。今までこの会で満州の話を聞いたことがないので非常に参考になった。
(質)昭和元年以降、人口が年間100万人ずつ増えたのは今と比べて何故こんなに増えたのか。次男三男が行ったはずだが具体的にどんなメリッがあったのか。質が悪かったというのはなぜか、純粋ではなかったのか。
(応)人口については幕末から増え始めた。幕末はまだそれほど食糧事情が改善されていなかったが、昭和に入ってから食糧事情や医療が改善された。
質の問題は満州で一旗揚げようという人がいて、事前にふるいおとせなかった。それで少年たちを教育してからということになった。
(質)ヨーロッパやアメリカは満州国を認めていたのか。どのくらいの国が認めていたのか。
(応)今回の資料には載せていないがウィキを見ると20カ国位載っています。

満州に行ったのは27万人位の内、約3割の8万人くらいがなくなっている。長野県が圧倒的に多い。山が多く耕地面積が少ないため養蚕が盛んだったが、大正から昭和初期にかけて生糸の価格が三分の一に暴落した。全体の12.8%くらいが長野県、次に多いのが山形県だが5パーセントくらいです。
槙 良生さん・・・演題「北の防人(さきもり) ~松前藩の四百年~」

ベテランの槙さんは過去、明治・大正の人物についての発表をされてきたが、今回は趣向を変えて松前藩についての歴史である。
まるで”松前物語”を読み聴かせてもらっているようで、関連した事件や地名の位置もその都度説明してくれるので非常にわかりやすく面白く、いつの間にか蝦夷地、松前藩の世界に入り込んでしまった。
15世紀半ばに武田信弘がアイヌとの同盟や交易を通して勢力を拡大し、蠣崎氏を継いで支配する。コシャマインの戦い、シャクシャインの戦い、クナシリ・メナシノ戦いを経て、アイヌと和人との交易関係からアイヌと松前藩との上下関係へと変化していく。場所請負制で1641年に干し鮭100匹ー米28kgだったのが、1669年ごろには干し鮭100匹ー米11㎏の取引にしかならなく、和人商人がアイヌを使役するようになっていた。
悪のイメージのある松前藩だがロシアの南下政策により、安全保障、防衛、外交戦略、経済動向など本来国家が担うべき重要な任務が小藩に課されていた。幕府は日露和親条約によって国境が定められると、蝦夷地を二度目の直轄地として北の防衛拠点とした。松前藩に学ぶべきことも多い。1万石の小藩でありながら、広大な蝦夷地を統治しアイヌとの関係を基盤に独自の藩政を展開した。松前藩の歴史を考察することは異文化接触と国家形成、国内経済と国際貿易といった多層的課題を理解するうえで極めて重要であると結んでいる。
(質)ロシアが南下して影響を強めようという時に、アイヌと松前藩は戦っており、ロシアはアイヌを支えようとはしなかったのか。
(応)ロシアは今と違い当時はすごく紳士的で最初の時、ラスクマンの時も許可を取って日本の作法にのっとっている。日本はアイヌを支配しているのだからとみていた。分析がきちんとできていれば違ったかも。

松前藩はあまり知らなかったが面白くよくわかり勉強になった。対馬ー朝鮮通信使と同じでコメは取れないが海産物や貿易で3万石くらいあって儲かっていた。薩摩-琉球は77万石くらいあったが25~30%が武士だったので苦しかった。一般には武士の比率は5%くらいで武士は消費するだけなので財政的にきつかった。外交は藩に役割として、制限もあった。