レポート[’18横歴秋の歴史散歩]

「知らなかった横浜のこんな所」
横歴秋の散歩「開港地横浜を歩く」


【行程】
10:40スタート JR桜木町南口⇒ガス製造所跡(本町小学校前)⇒(紅葉坂)⇒神奈川奉行所跡(県立青少年センター入口)⇒野毛坂切通し⇒野毛山公園入口⇒佐久間象山顕彰碑⇒野毛山展望台⇒(昼食)⇒史跡水道管⇒都橋(野毛橋)⇒吉田橋⇒馬車道入口⇒下岡蓮杖顕彰碑⇒神奈川県立博物館(旧横浜正金銀行)⇒(本町通り)⇒運上所跡(神奈川県庁)⇒開港資料館【休憩・資料館見学】⇒横浜公園・港崎遊郭跡⇒15:45解散
⇒秋の散歩ガイドノート

すっかり秋めいてきた11月25日の朝10時半過ぎ、参加者61名がJR桜木町南口に集合しました。今回の歩きの目的は当会会員のホームタウンである横浜の歴史をどれくらい知っているか?知人にガイドを頼まれた時案内をしてあげられるか?といったことが発端です。横浜が歴史の表舞台に出てくる時期として、アメリカ艦隊ペリー提督の横浜上陸の頃が良く知られています。ではなぜ横浜が日米和親条約の締結の場所として選ばれたのか、その後開港地としてどのように生まれ変わっていくのかを検証してみようということで企画しました。

以外に険しい山が海に切り立っていた

10時40分南口をスタート。桜木町駅は開港当時(1659年)は海の上でした。広重の絵にあるように、神奈川宿(現京急神奈川駅)から見ると手前の入海(現横浜西区)の先に、二つのこぶが並んで見えるのが野毛山、離れた奥にあるのが本牧山でどちらも船での往来の方が便利と思える位置にあります。横浜はこの二つの山の間に位置します。桜木町駅からすぐ海辺の山裾だった道を西へ進みます。最初の史跡はガス製造所跡。開港横浜の開発者として知られる高島嘉右衛門が設立したガス会社の工場です。少し進み左に折れると急な登り坂(紅葉坂)が現れます。初めての人にはちょっときつい、知らなかった横浜の一面です。坂をのぼりつめた辺りにあるのが県立青少年センター、神奈川奉行所跡。開港に合わせて幕府が港の運上や治安、外交などのために設置したものです。幕末回天の武士を語れば熱い竹村紘一副会長のポイント解説が入ります。特にこの奉行所に勤めていたという筑後出身の志士-篠原泰之進(たいのしん)を取り上げ、後に新選組に入ったが反旗を翻し近藤勇襲撃を行うなどヒールイメージのある人物像にスポットを当てるなど竹村氏ならではのマニヤックな解説でした。

開港地横浜を見下ろす野毛の切通し

開港地横浜の決定は江戸に近い港の開港を望む列強国にとって驚きに近いものでした。半年足らずで開拓した港横浜は埋め立てによる真っ新の造成地、そこに外国人居留地に外国とのビジネスを行うための日本人街プラス遊郭をセッティングしました。切通しからは出店を思案する江戸の商人が関内を一望できたはずですが、現在見ることはできません。野毛山公園入口で、シルクに始まる横浜の商業のあけぼのを清水漠さんに解説いただきました。

野毛山展望台から横浜の発展をイメージ

野毛山公園は東の山手外国人居住地に対し、原善三郎や茂木惣右衛門ら横浜の豪商たちが好んで住んだ西の居住地でした。いまは市民に開放され憩いの場所となっています。ペリー来航時から横浜の警護に当たった松代藩の軍議佐久間象山が横浜を開港地として推挙していた事を顕彰する石碑などがあり、公園の奥に進むと小高い位置に展望台がある広場に到着です。ここでは横浜の水質の悪さにより在留外国人から水道布設を要求された新政府が国のメンツをかけ巨額の金を投じ完成させた横浜水道の話を進藤洋輔さんがポイント解説しました。ここには当時の浄水場跡、工事を指導したパーマーの顕彰碑があります。
また展望台からは江戸の初期、横浜開発の先駆けとなった吉田新田の全貌を推察することができます。

昼食を終え開港地横浜へ向かう

穏やかな日差しを浴びながら昼食をすますと、ふたたび野毛坂に戻り関内を目指します。坂を下り、いまは賑やかな通りとなった野毛の繁華街を抜けると野毛橋(都橋)。橋を渡った側が吉田新田を取り囲む堤だった所、続く道の先が低く沈んでいることでその昔沼を埋め立てたことが推察できます。伊勢佐木町方面へ進むと地下高速道路(大岡川が新田の上部で分かれ本牧方面に流れ、回り込むように関内との間を流れる川)にかかる吉田橋があります。橋を渡った先が開港地関内です。いまは明治当初の鉄橋をイメージさせるトラストが欄干にデザインされています。橋を渡り、JR線の下を抜けると馬車道です。
宮下元さんから吉田橋の変遷、関内のいわれ(馬車道の入口に当るところで、港側へ入る人間をチェック、主に居留者に狼藉を及ぼうとする輩を排除するための番所があった。これより内を関内と呼んだ)や街の通りを照らす目的で初めて設置されたガス灯の話などを解説いただきました。

関内のメイン道路本町通りを行政の中心街へ

馬車道は近代化へ進む日本の象徴的通りでした。文化を先取りする様々な店や施設が建ち並ぶ通りが、東西に走る本町通りとつながる辺りが横浜村と呼ばれた頃からあった砂洲の突端になります。現在神奈川歴史博物館が建つ辺りに洲干島弁天社(現羽衣町厳島神社)がありました。
開港時日本人街、外国人街へと続いた本町通りを西に進むと右手に横歴の例会会場横浜開港記念会館、その先左手に神奈川県庁が現れます。県庁前から南へ横浜公園まで道幅36mの日本大通りが続いています。交易が盛んになり人や建物で街が膨らみ始めた慶応2年の大火で、廃墟化した街を再整備するため造られた近代的大通りでした。
県庁は神奈川運上所があった所で、税関業務や外交業務などを行っていました。「運上」とは「税金」を意味し、役人は神奈川奉行所から毎日出張してきました。三觜行雄さんが開設に始まり明治5年に横浜「税関」となり、その後埠頭側に移転する変遷の経緯などを解説しました。

秋色に染まる日本大通り~横浜公園

いま日本大通りは銀杏の黄色い葉が、街をシックに染め上げています。その趣きにぴったりの建物が旧英国領事館があった開港資料館です。中庭の玉ぐすの木はペリー来航時より条約調印を側で見つめ、今日まで命をつないでいます。資料館では「明治の戦争と横浜」と題した展示を開催中、常設展示も含めしばし展覧を楽しみました。
3時30分、散歩の最後は横浜公園にある港崎(みよざき)遊郭跡。開港から大火により消滅するまでわずか8年の間、遊女亀遊の切ないエピソードを交えた横浜近代化の影の歴史を木村髙久副会長が解説しました。
灯台下暗しならぬ横浜の横浜知らずの方も少なからずいる中、参加者からは知らなかった横浜にたくさん出会えて良かったのと声をいただきました。機会があれば外国との関わりが深い山手側から横浜を散策するコースも開催して見たいと考えています。

(レポート 高尾隆)