[レポート]令和元年 横歴研修バスツアー

 

5月23日(木)~24日(金)若き日の徳川家康の足跡をたどる旅が開催された。参加者43名

5月の下旬と思えない真夏日が予報される快晴の下、横浜駅東口に集合。初参加の10名の皆さんも期待に胸を膨らませ。バスは横浜から東名町田インターから一路浜松へと向かった。
旅行の企画構成はツアーコンダクターを務める上野事務局長。参加者に旅程や注意事項等の説明があり研修のスタート。

車中学習

横歴バスツアーの特長は、片時も惜しまず歴史の勉強にいそしむこと。そのため目的地までの長めの時間帯も訪問地の予習に費やされる。
今回の旅のテーマは、徳川264年の礎を築いた家康が生涯最も苦難と忍従を強いられたとされる浜松城主時代の三方ヶ原の合戦を紐解き、その苦い体験が家康をどう変えたのか、その後の人生にどのような影響を与えたかを学ぶことである。
ビデオ学習「三方ヶ原の合戦」。(45分)
戦国後期、強豪武田信玄が大いなる野望を抱いて征西を開始、その行く手にふさがり家康が無謀にも戦いに挑んだ三方ヶ原の戦いを、その前哨戦となる二俣城の戦いから敗北までの流れをわかりやすく解説したビデオを見て訪問地の予習を行う。
またこの合戦話は後世の人々の語り草となり、講談の世界では講談師を目指す方が「修羅場読み」と言われる発声の基本として学んでいる。普段社会人落語家として活躍されている参加者の中村康男さんが、その講談のさわりを披露され車内は大いに盛り上がった。
予習解説①「本田宗一郎のモノづくり」
最初の訪問地、浜松市二俣は世界的自動車メーカーホンダの創設本田宗一郎氏の故郷である。山深い田舎で機械いじりが大好きな自転車屋さんの子供が、自転車修理から身を起こし、現在のホンダを作り上げるまでの話を宮下元さんが解説した。
予習解説②「二俣城と清瀧寺」
二俣城は信玄が徳川と戦う上でどのような意味があるのか、当時の情勢を踏まえどうやって攻略したかを検証し、その二俣城の戦いの7年後に家康の生涯で汚点ともなる長子信康を自刃に追いやった顛末を竹村副会長が解説した。

午後12時 天竜二俣に到着。豆腐料理「ぎふや」の壬生膳で昼食。

二俣城

3班に分かれ地元の天竜ふるさとガイドの皆さんの案内で城跡へ向かう。急流で名高い天竜川が大きくV字に蛇行する部分を二俣川が切り取ったような一帯が険しい山城になっている。まさに自然が造った要塞。平均年齢70を軽くクリアするほどの高齢者集団にも関わらず学習意欲満点の会員達は必死で長い階段を上った。
武田軍がこの城さえ手に入れば遠江は簡単に掌握できると攻めたてが、落とすのに2カ月もの時間を要した。さらに皮肉なことに3年後、徳川がこの城を取り返すのに7カ月も要したという。南曲輪から尾根伝いに蔵屋敷、二の丸、本丸、北曲輪と連なり大堀切で城は切り取られ難攻不落の要害をなしていた。
さらに北へ進むと信康が眠る清瀧寺に辿り着く。

清瀧寺

織田信長の娘であり徳川信康の嫁である徳姫からの夫並びに義母築山殿に対する諫言により、自害させられた信康の菩提寺が清瀧寺である。普段信康廟を拝むことはできないが地元ガイドさんの案内により運よく拝むことができた。幕府からの扱いは厚く、多額の供養料を受け、住職は10万石の大名の格式で、将軍からの厚遇を受けたという。
境内には武田が二俣を落とすために筏を用いて破壊したという井戸櫓が復元されている。

本田宗一郎ものづくり伝承館

本田宗一郎の業績や、人となりやものづくり精神を学ぶ資料館。昭和を生きてきた人間にとってその業績のすべてが日本の機械産業の手本と言える人物である。その偉大さにしばし感服である。

二俣を後にして浜松へ向けて南に下る道筋は、信玄が徳川攻めに向かう道である。
予習解説③「浜松城」
浜松城は元亀元年から天正14年の駿府転封までの17年間を送った城、家康にとって苦渋の思いでしかない所かも知れない。現在も残る野面積みの城郭は家康の後に城主となった堀尾氏によるものである。山本修司さんにより築城の経緯、築城の様式に加え、家康在任中の戦いを解説いただいた。

バスは史実と同様に浜松方面へ、途中右に折れ浜名湖方面へ西に進むとゆるやかに丘を登りはじめる。そこが徳川軍対武田軍が戦った浜松城の後方にある東西10キロ、南北15キロの平皿を伏せたような三方原台地である。

犀ヶ崖古戦場資料館(三方ヶ原の戦い)

武田軍進軍の報を知り小豆餅坂付近まで進軍していた徳川軍に対し、武田勢は意外なことに浜松の城攻めには向かわず、西に向かっていた。敵に背を向け進む武田軍に対し、家康はその後を追ってしまった。それは信玄の作戦なのか、素通りされては武士の面目が立たぬと思ったのか、家康は攻撃を仕掛けてしまう。しかしここぞとばかりに踵を返した武田軍に兵の数でも劣る徳川軍は大惨敗を決してしまう。
犀ヶ崖資料館はそんな徳川軍が籠城を強いられる中、武田軍が浜松城の後方の犀ヶ崖付近に陣を張っている所を、夜陰に乗じて奇襲をかけあわてた武田軍を崖下に落とし損害を与えた場所にある。

信玄の元亀がなくなり、信長・家康に天正が訪れる
しかし信玄は浜松城攻めには来ず、三方ヶ原の西側にある刑部(おさかべ)砦で年を越し、明けて徳川と同盟を組む三河の野田城を攻略し、いよいよ征西へ向かうと思われたが病に倒れ死去する。
家康がこの戦いで完全に敗れて亡くなっていれば、後世取り上げられることもなかった戦場である。改めて家康の武運の強さを知る。

ライトアップされた浜松城の夜景を見ながら懇親の夕べ
しっかり学んだ後は、浜松城に隣接するホテルに宿泊、ホテルの宴会場で全員参加の楽しいひと時を過ごした。

〈2日目〉

元城町東照宮

翌朝、浜松観光ガイド協会のガイドさんがホテルに来られ、3班に分けて浜松城へ徒歩で向かう。途中浜松城の前身の引間(曳馬、引馬)城があった場所に建てられた東照宮へ寄る。家康が武田軍に攻められ這う這うの体で逃げ帰ってきた場所と言われている。またこの地は家康ともう一人の天下人秀吉が引間城を整備した飯尾氏の配下である松下氏に16歳から3年間仕え、浜松で過ごしていた。16歳のころに引間城を訪れ、猿まねをして栗を食べたという逸話も残っている。

浜松城

家康にとって三方ヶ原の敗北はあったものの、その後は高天神城の戦いで武田軍を破り、小牧長久手の戦いでは秀吉に泡を吹かせ凱旋した城でもある。後世を鑑みると出世城と呼ばれる由縁も理解できる。いまの城は秀吉時代に堀尾氏に築城させたもので城の仕置には東方の家康を意識した東側防御を考慮しているとの説明を受けた。
城の石垣は自然石を上下に組合せ積み上げた「野面(のづら)積み」と言われるもので、彦根城や竹田城、安土城にも用いられている。浜松城を後に東へ掛川に向かう。
予習解説④「掛川城」
家康が上杉討伐の折、一転関ヶ原へ向かうと宣言した小山評定で、山内一豊が「戦いのためにいかようにも」と差し出したことで知られる城。徳川時代には多くの譜代大名が入った。安政の大地震により天守が倒壊されたままになっていたが、平成6年に木造による復元を果たし観光の目玉となっている。隣城高天神城の攻防や牧の原市相良の出である肥後人吉藩のエピソードなどを交え、村島秀次さんに東遠江を俯瞰的捉えた解説をいただいた。

掛川城

今回3つ目の登城。木造による再現の天守ということもあり、傾斜角60度という階段を足の悪い一部の方を除き手すりにしがみつき上る。参加メンバーの多くは一昨年日本一急な福井丸岡城を経験しているとはいえ、なんとも凄まじい執念である。ガイドさん曰く「天守には普段住みません。倉庫のような場所でした」。ちょっと待って、誰が荷物を運ぶの?戦より過酷じゃない?
二の丸に建てられた御殿は江戸後期の建物で上洛する将軍も利用したという書院造りの立派な建物である。京都二条城など全国に4ヵ所しか残らない建築物とのこと、必見です。

掛川の茶屋で食事をとって、旅の最終目的地大井川へ向かう。

予習解説⑤「大井川川越(かわごし)遺跡」
大井川は江戸時代、東海道障害物道中の最大難所である。勝手に渡ることはできない。必ず人足の手を借りて渡るしかない。だから金がないと渡れない。まさに渡る世間は金次第だった。人足の肩車で渡るのが一番安い基本料金だが、その日の水かさ次第で股下から脇までの5段階で料金がかわる。見学時間が限られる中、竹内章二さんの解説で渡しの仕組みが理解できた。

予習解説⑥「蓬莱橋」
明治になり、牧之原台地の茶園から茶葉等を運ぶためにかけられたギネス認定の世界一長い木造の橋である。高島治さんが牧之原の茶畑開墾を静岡藩に転封させられた徳川幕臣達が行ったことなどを解説した。長さ987.4m=厄なしの橋または長生きの橋=長い木の橋ということで我々の旅の最後にふさわしいスポットである。

大井川川越遺跡

2班に分かれガイドさんに付く。当方担当が松井さんという方。なんと10年程前訪れた時に、マンツーマンで20分程案内していただいたのが松井さんのお兄さんだった。川越人足は悪人のような伝え方をされるが、身元も人物もしっかりしていなければなれなかったという話は前回同様で、この遺跡を案内する地元の人間の務めのように思えた。

蓬莱橋

見るからに旅情をさそう長い橋である。橋を往復するには30分はかかると思われるため、10分程で引き返してほしいとこと、川の中央まで進む。快晴の空の下、気持ちよい川風を受けながら自然を満喫する。

帰路

16時00分吉田インターから横浜へ向かう。事故もなく心地よい疲労の中、初参加の方々の旅の感想を聞く。高島さんから出されていた897.4mは正確には897.422とのことで、「厄なしに続く言葉を」との問いに、中村さんが「厄なし夫婦は長生きに」との答えをもらい全員爆笑。お後がよろしいようで。
横浜着19時45分。

(レポート 高尾隆)