[横歴通信12月]例会開催

湖東三山の金剛輪寺の血染めの紅葉(高島会員撮影)

12月4日(月)今年度最終の例会が行われました。平日にもかかわらず95名(会員81名、ゲスト14名)とコロナ禍以降、最多の参加者数となりました。また、引き続き行われた懇親会にも38名と多数のご参加を頂き、無事今年度の活動を終えることができました。

会長挨拶

先月25日の秋の歴史散歩は45名の参加者があり、狭い道や多くの観光客で込み合っていたにもにもかかわらず、皆様のご協力のおかげで無事終えることができました。その後の懇親会も30名の参加で会場いっぱいに盛り上がりました。
今年もいろいろなニュースがありましたが歴史に関する重大ニュースとしては奈良の丸山古墳から出土した銅鏡と2.3メートルの銅剣発見があげられます。ヤマト王朝の威厳や時代がいかに重要であったかが伺えます。いつ頃一般公開されるのか、展示されたら是非見に行きたいと思っています。38年ぶりの阪神優勝も大きなニュースでした。コロナ規制のかかる以前に比べての参加者が80パーセントくらいまでに回復してきました。来年はコロナ前の状況に戻れるよう積極的なご参加をお願いいたします。
来年も元気な姿でお会いしましょう!


金子ユカリ氏  演題「石田三成 ~徳川政権下によって歪められた人物像に迫る~」
トップバッターの金子氏は石田三成ファンのミツナリストを自認している。三成の家紋入りのジャンパーを着て、早くからPC操作や話し方などを確認して準備万端で臨まれた。
歴史の登場人物にはなぜか嫌われ者がいる。石田三成もその一人である。「勝てば官軍負ければ賊軍」のように勝ち残ったものにいいように脚色されることが多々ある。「歴史は勝者によってつくられる」である。また、文書の多くが破棄されたことで研究が進まず、江戸期に伝わる人物像は後世に書かれた二次史料から忖度や世情が影響している可能性があるが、最近の歴史家による研究から一次史料による研究がすすめられ三成に対する評価が大きく変容している。明治期に入ってからようやく実際の人物像に近づいた研究が始まったようだ。三成が佐和山城主時代に発した掟書きや新たに見つかった自筆の書状から三成の人となりを読み解くと、領民に対して善政を行い慕われていたことが分かる。現代でも滋賀県の公式CMに起用されるなど大いに活用されている。三成研究の意義はゆがめられて造られた人物像を限られた資料の中から分析・検証し、歴史を新しく見つめ直す楽しみと真実を見極めようとする大切さを教えてくれるものであると結んだ。
DNAの解析から縄文人の性別が分かり健康状態などが分かる時代になっても、その人となり、真の人物像の解明に至るまではなかなか難しいものである。発表に至るまでへの協力者に感謝を述べる謙虚な姿勢に好感が持てた。

平  博子氏  演題「文久三年(1863)横浜鎖港談判使節について」
ペリーが黒船で浦賀に来航して今年は170周年である。その時からちょうど10年後、攘夷の嵐が吹き荒れる中、朝廷に対する口実として幕府は成功する見込みもないまま、朝意遵奉で機嫌を損なわないように横浜鎖港使節団を派遣した。将軍の上洛と使節の船の解纜(かいらん)が同じ12月27日であったことから談判使節を言い訳にしたかったのだろう。現在も碑が建っているフランス士官殺害の井土ヶ谷事件や下関での軍艦砲撃でフランス政府に謝罪の使節を送るついでに談判しても差し支えないであろうとフランス皇帝ナポレオン三世の東洋各国に力を伸ばそうとする意をくんだベルクールのすすめもあった。正使は28歳の池田筑後守長発(ながおき)である。横浜から上海へ向かい、イギリス公使オールコックと会談するも鎖港は問題外であるとされ、香港・シンガポール・スエズ・マルタを経てパリに到着、5月7日リュイフランス外相との会談が始まったが外交交渉は相手国が上手であり「パリ約定」の締結となった。外交交渉時に池田は名刺を作っている。また、海外認識にも変化が生じている。ヨーロッパ諸国の訪問は断念して早い帰国となった。帰国後、池田は建白書を提出したが当時は顧みられることは無かった。きわめて開明的な提言であり、国家間の対等な関係を前提とした欧米型の国家体制、万国公法への理解を著している。実際に世界を見ることで理解を深め新たな見識を持つに至ったのであろう。建白書に見られる提言はその後幕府および明治政府によって実現されたものばかりである。いつの世でも枠にとらわれない先駆的な発言は受け入れられるまで時間がかかるものであり無念であったろう。
9月発表の森氏の投影写真にピラミッドと武士団の写真があったがその武士たちこそこの使節団である。初めての発表とは思えない堂々と落ち着いた様子で頼もしい姿であった。

上野 隆千氏  演題「江戸300諸藩の経済的困窮~備中松山藩・山田方谷の藩政改革」
今年度最後の締めを飾るのは上野事務局長、山田方谷についての発表である。
江戸後期から明治維新に至る間、日本では大改革が行なわれる。江戸の経済は米相場で成り立っていたが、商品の物流は米だけではなくなり、米を俸禄として受け取る武家社会は時代と共に衰退していく。多くの諸藩は借金地獄で追われて何とか財政を立て直そうと懸命だった。財政改革を行った有名な事例としては米沢藩(上杉鷹山)、松代藩(恩田木工)、薩摩藩(調所広郷)の例が挙げられる。
山田方谷は、備中松山藩の藩政改革を断行し、財政危機に陥っていた藩を立て直すとともに、教育者として多くの優秀な人材を育成した。越後長岡藩の河合継之助も弟子のひとりである。
方谷の改革は①藩の資産を公開して負債の整理、②産業振興で備中ブランドを直接売り込む、③上に厳しく下にやさしい倹約④大阪蔵屋敷を廃止、⑤乱発して信用の無かった藩札を償却して信用される藩札・永銭の発行⑥武士の特権を崩して、商業を中心とした経営への切り替えなどを行った。
戊辰戦争によって、朝敵となり、備中松山を無血開城したのが1868年。
藩主・板倉勝静と農民上がりの儒者である方谷の二人がそろったことで備中松山藩の財政改革は大成功を収めることができたのであろう。方谷は中央政府に手腕を認められ求められても断り、村塾を開き、庶民のために閑谷学校の再興を行い、教育に力を注いだ。幼いころからの苦労が先見の明を開かせたのであろうか。
上野氏の発表は米の消費と生産性向上による江戸の社会経済の発展の中で、何の生産性のない武家の存在が生んだ矛盾をわかりやすく解説してくれた年を締めくくる素晴らしい発表であった。

令和5年度の研究発表は発表数27件(26名)中、女性が6名、うち4名が初参加という今までにない女性快挙の年となった。また、古代から現代に至る通史の他、ドイツ・中国・エジプトと世界にまたがる研究発表が行われた。このように幅広い活動ができるのは横歴の特徴であると言えよう。例会に来るのが楽しみだという声が多く寄せられている。来年度もまた、楽しく興味深い研究発表が行われることを期待して無事一年の活動に心から感謝したい。
*発表者の詳細は「研究発表」をご覧ください。

令和6年度定期総会と新春講演会のご案内

1月8日(月)午後1時00分~4時10分  会場/関内ホール(小ホール〉
第1部 令和6年度定期総会  午後1時00分~2時10分
第2部 新春講演会      午後2時30分~4時00分*講演会費 1000円
演題  「孝謙女帝の結婚話 」
講師  松尾光先生
略歴
・1948年 東京生まれ
・学習院大学文学部史学科卒業後、同大学大学院人文科学研究科史学専攻博士課程満期
退学 2005年、博士(史学)取得
・神奈川学園中学高等学校教諭、高岡市万葉歴史館主任研究員、姫路文学館学芸課長、
奈良県万葉文化振興財団万葉古代学研究所副所長、鶴見大学文学部・中央大学文学部
早稲田学商学部非常勤講師をへて、現在早稲田大学エクステンションセンター講師。
著書
☆『古代の社会と人物』2012年:笠間書院
☆『日本史の謎を攻略する』2014年:笠間書院
☆『現代語訳魏志倭人伝』2014年:KADOKAWA
☆『思い込みの日本史に挑む』2015年:笠間書院
☆『古代史の思い込みに挑む』2018年:笠間書院
☆『闘乱の日本古代史』2019年:花鳥社
☆『飛鳥奈良時代史の研究』2021年:花鳥社
☆『古代政治史の死角』2022年:花鳥社 他多数

*総会のみ参加の方は会費を徴収いたしません。
*総会の出欠ハガキは委任状も兼ねています。12月20日までにご返信お願いします。