ー[葉山沖 インカレ・ヨットレース]ー
梅雨入りでの各地の大雨被害が心配されていました。梅雨明けが待ち遠しくなりますが暑さも心配です。災害時の避難経路なども日ごろから注意して備えておきたいものです。
今月6月8日の例会参加者は79名でした。(会員73名、ゲスト6名)二次会の参加者は32名でした。今月同様、来月にも初めて発表される方が続きます。楽しみですね。

熊本会長
会の活動として先月バスツアーを行いました。定刻通りに帰着し、無事予定通りに終えられました。皆さんのご協力のおかげです。
本日配布の「歴研よこはま」は半年に一回の発行です。編集員が苦心して作ったものです。
長島元監督の出現で今のプロ野球の発展があると思われます。昔と違い少年野球もプレーも変わり時代は変わったと感じられます。
遠田千代吉さん・・・演題「こもりくの初瀬」
万葉集の歌から、史跡地や史実を解明しようと研究している遠田さん。雄略天皇の唄にある「こもりくの初瀬」の認識として「初瀬」は北は三輪山と南の外鎌山(忍坂山)に囲まれた谷にあり、「こもりく」とは山に囲まれたこもった場所、葬る場所を指す枕詞である。歌に出てくる地を実際に歩き、検証してその地を特定した。”過去は戻らない”しかし歴史の学びを通して”過去は甦る”蘇ったところにともに過ごした時間に喜びを感じる、とまとめた。
奈良のお寺は好きですが、こちら方面は長谷寺以外行く人はあまりいない。万葉集への関心ということから行くなど、いろいろな廻り方があるということで感心しました。長谷寺は創建当時は東大寺の末寺で華厳宗、平安時代には興福寺(法相宗)の末寺で現在は真言宗豊山派の総本山です。鎌倉にも長谷寺(浄土宗)がありますが関係はありません。長谷寺という名は地名からきているようで他にも長谷寺は結構あります。鎌倉の観音は9.1メートル、初瀬の長谷寺は11メートルですか。奈良の長谷寺の本堂は清水寺のように懸造になっています。
*遠田氏より
歩く時の初瀬の長谷寺の周辺は国道が通っていて一部分歩道がないので十分注意して覚悟していってください。良い場所なのでぜひ足を運んでください。また、少しお金がかかりますが本堂に入って、長谷寺の観音様の足にすがることもできますので是非、そこまでしてみてください。
細谷 英敏さん・・・演題「日光例幣使の創設」
今回が初登場の細谷さんは栃木県にお住まいで、近隣の日光に焦点を当てた発表です。日光例幣使とは江戸時代に毎年朝廷から日光東照宮に派遣された勅使のことをいい、創建当初は日光東照社であった東照宮の宮号宣下と日光例幣使が創設された経緯について検証された。葬儀法会には質素倹約をと遺言した二代将軍秀忠と日光東照宮のそばに廟所をおかせた家光。幕府権力・権威の確立を企図した秀忠と成し遂げた家光の姿が浮かび上がると結んだ。
(質)中山道を通ってから日光街道を通らず、倉賀野、玉村からの例幣使街道を通った意味合いは。
例幣使の年賀に来るお公家さんとの格の違いは。接待に差はあったのか。
また、例幣使が帰りに御幣を切って大名に渡したというのは。
(応)これは完全なショートカットです。昔はなかった道です。八木のあたりを通っていて、その辺りは発展していなく、例幣使が通るようになって発展していった。
例幣使の公家は五位クラスで年賀に行く公家のほうがはるかに上です。力も位もある実力者です
江戸で長期滞在して前年の幣帛を切り刻んで大名家へ配る。大名家もただでもらうわけにはいかないのでなにがしかのお金を渡した。
例幣使は厚遇されていました。初期は愛されていたが、幕府の力が落ちてくると公家が大きな顔をし、農民からお金を巻き上げるなどして嫌われるようになった。
私も3年くらい前に例幣使の行動について調べたがあまりにひどいので止めました。例幣使は一財産造れるので競争率が高く、人気も高かった。
途中で大名行列にぶつかっても大名が譲るくらいの位置づけで5~60人の中には公家以外の出入りのもの達も入っている。東海道や中山道はいいが、例幣使街道の群馬や栃木に入ると悪さをした。お金を吸い上げることが常態化していた。これは島崎藤村の『夜明け前』にも出てきます。
今日は例幣使の話といきさつをいろいろしていただきました。
飯山 晴美さん・・・演題「新選組Episode:0多摩の歴史に見る球人の気風」
「昨年4月に発表した赤穂浪士と今回の新選組が歴史における好物であるが、どちらもドラマ先行型で真実のことが良くわからないという共通点がある。」と話された飯山さん。新選組はテーマを絞るのが難しく、新選組につながる歴史ということで、まずは近藤や土方を生み出した多摩の地、古代~中世の多摩の歴史と多摩人につながる話で、資料や実際に歩きながらの現地の写真を映して、名物などの紹介を交えて楽しい発表となった。多摩農家さんのブルーベリージュースは目に効きそうです。
(質)江川坦庵と多摩の名主とのネットワークの関係性は。
(応)江川坦庵は多摩と伊豆の代官を務めていた。町田の辺りは所領ではないが、日野・八王子は坦庵と密に連絡を取り合っていた。新選組が京都に行ったのは多摩の名主たちの後押しがあった。農兵隊を組織しようと動きを一緒にしていて多摩と京都は密に連絡を取り合っていた。
(質)東山道の支線、武蔵道はどこからどこまでか、どういう風に残っているのか。
(応)東山道の新田(群馬)あたりから相模の国府(海老名)でそこまで武蔵東山道として続いていた。
JR西国分寺の数百メートルだけしか残っていない。東山道の本線と武蔵を南北につなぐ道です。
(質)幕末に近藤勇が江戸から天然理心流の道場を開いたが多摩にも残っているのか。
浦賀の中島三郎助なども天然理心流で奉行所でも広まるくらいだが高い位置に挙げたのは誰か。
(応)近藤勇の父(養父周斎)が八王子出身、その先代も多摩出身なので多摩の辺りに天然理心流が広まった。牛込に勇の父の代で道場を構えるが多摩の名主たちの屋敷の出稽古に来ていた。名主たちが道場を構えていた。
近藤勇の父が高い位置に挙げたのではないかと。多摩でも不穏な動きがある中で自分たちもある程度武力を付けなければと取り入れられたということが書かれた本が多い。
(質)武蔵の国は大きく中心地を考えるとずいぶん南に下がっている。本来は行田のさきたま古墳辺りでもいいのかと思うがやけに辺鄙な所にあるのはなぜだろうか。
延喜式の駅家(うまや)は多摩・海老名・川崎と東海道は武蔵国府を通らないのが疑問です。
(応)国府が府中に置かれたのは埼玉古墳群があったので埼玉、大宮辺りでもよかったと思うが、古墳時代から多摩川辺りにも大きな古墳があるので力のある豪族がいたことが影響しているのでは。また、多摩川を使った物流が便利で府中を選んだのではないかと書かれている本があった。
東海道の変遷については通り一遍だが、平安時代には今の池上辺りも東海道だったこともあるので時代によって道筋が変わっているのではと思う。
今回の演題は「エピソード0」となっているが新選組が出てくるのは次の次くらいでしょうか。何でも応えられるのはすごいです。多摩地区の学芸さんのようですね、もったいないので、どこかでやったらよいのでは。
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