レポート[’19横歴春の歴史散歩]

江戸名所図会でひも解く「早稲田の杜から神田川 春の庭園をめぐる」

【行程】
午前11時 穴八幡神社⇒高田馬場⇒堀部安兵衛碑⇒高田富士⇒水稲荷神社⇒甘泉園⇒姿見橋⇒肥後細川庭園⇒関口芭蕉庵⇒椿山荘庭園⇒関口大洗堰⇒15時40分有楽町線江戸川橋駅解散

4月21日日曜日、春の歴史散歩が開催されました。
気温21度早稲田の丘陵を抜ける風はさわやかで、春の日差しも木陰に入ると心地よく感じられる好天気となりました。今回の歩きのポイントは江戸の郊外、高田の里(現早稲田の杜)から神田川の散策です。同地帯は江戸城田安門を抜け、外堀牛込門を渡り神楽坂から登る尾根道の先にあります。古くは上州へ続く道として牛込の由来となった牛飼いの地でもありました。街道筋には徳川幕府を護る先手組、持筒組、大番組、御弓組、根来組といった旗本・御家人達の住まいが連なっていました。その武家達が信奉し鍛錬したのが穴八幡神社であり、高田馬場でした。その周りは風光明媚な地であり、側を流れる神田川沿いは大名の下屋敷などが点在する美しい田園地帯がありました。
⇒ガイドノート’19春高田神田川散歩

徳川家祈願の穴八幡は菊の御紋の壮麗な神社

参加者49名。午前10時、穴八幡神社別当の放生寺門前からスタート、集合地点はその昔寺の放生池があった辺り、村島会員による穴八幡の創建と江戸時代武運長久の将軍家祈願所として重用された同所が明治の廃仏毀釈によって、寺と神社に分離され穴八幡は菊の御紋の神社に変身したいきさつなどが語られました。
穴八幡から数百メートル歩を進めると早稲田通りに面した細長い区画のある交差点があります。そこが武士たちが武芸を磨くために汗を流した高田馬場跡です。当時隣接していた茶屋跡や堀部安兵衛決闘助太刀の場所などをガイドノートの名所図会などで確かめていただきました。

神田川に向かって下る斜面は山吹の里と呼ばれた田園だった

馬場から神田川へ下る斜面は江戸時代、茗荷の産地として知られた田園「山吹の里」です。その一帯に徳川御三卿の一つ清水家が下屋敷を構えていました。現在甘泉園という名の庭園で都民に開放されています。実は庭園の一角には江戸時代、現早稲田大学側にあった水稲荷神社と江戸後期に盛んになった富士講最初の富士塚「高田富士」が移築されている。見学の後は園内で昼食タイム。

神田川沿いの南斜面は美しい大名庭園が連なっていた

甘泉園正門を出て都電停車場「面影橋」へ向かう。橋を渡ると大田道灌の山吹の里(姿見橋)の逸話にちなんだ碑が立っている。あたりに当時の面影はないが、初夏のさわやかな風が想像をかきたててくれる。
さらに江戸切絵図にも残る道を進むと、「肥後細川庭園』に当たる。江戸末期、肥後細川家が川沿いから目白通りまでの広大な斜面を下屋敷にしていました。近年文京区が整備を行い素晴らしい庭園に生まれ変わっています。参加者の皆さんツツジやシャガ、フジの花が咲く園内の景色をしばし堪能です。

松尾芭蕉も川普請の手を休め眺めた目白台椿山

細川の庭園の隣は、江戸に出てきた松尾芭蕉が神田川上水の工事のために滞在していたと言われる場所に建つ「関口芭蕉庵」。彼がなぜこの仕事に就いていたのかは謎が多いが事実です。仕事の傍ら辺りの景色や川の流れを眺め句を詠んでいたのでしょう。小さな庵は芭蕉の句のわびさびを感じられる印象的なスポットです。
この庵の隣が、東京で有名なホテル「椿山荘」です。一帯は細川庭園同様に大名の下屋敷だった場所で、明治になって山県有朋が購入し私邸として広大な庭園を整備したものです。その造作と残された文化財は何度訪れても見事なものです。

徳川が開幕前から手がけた治水工事「関口大洗堰」

家康が江戸を治めるために最初に着手したのが、江戸川(現神田川)の水を上水として江戸の町に引いてくることでした。そのために水位を上げ水を分けて水道に通すための堰を造ったのが関口大洗堰です。木村会長が岩の上に立ち神田上水の解説をされました。
散歩の始めから最後まで水にちなんだ場所をめぐる一日でした。一同江戸川橋駅で解散。
(レポート 高尾隆 写真 雨宮美千代・熊本修一)

 

 

 

 

神田川関口の川辺(撮影)熊本修一